344『第80話 日常32 飛殿道場 2』

「すまなかったな。いきなり手荒な歓迎で」

 5階にある館長室の重厚なソファに沈み込んだ冬馬は、飛殿館長の謝罪を受けた。広い部屋に二人きりだった。

「君が来ると聞いて、加納にも思うところはあったのだろう……。君の父親が破門になった話は聞いているかね」

「はい。破門になった、とだけ」

「あの加納はね。ずっと夏雄をライバル視していた男だ。実力的にも甲乙つけがたい。それだけに夏雄が去った時には、複雑な感情を抱いていたようだ」

 冬馬は思い出して、リュックサックから焼酎を取り出した。

「父からです」

「おお。私の好きな酒だ。長いことアメリカに行っていてね。日本に帰ってきてまだ飲んでないんだ。銘柄を覚えてくれていたのか」

 飛殿は大事そうに焼酎を棚に置いた。

「夏雄は元気か」

「はい」

「実家の寺を継ぐつもりなのか」

「さあ。なにを考えているのかわかりません」

「そうか」

 飛殿は過去を追想するように、宙を見つめた。

「私は、君とは会ったことがあるんだよ。夏雄が道場に連れて来てくれてね。破門にする前のことだ。君はまだ小さかった。覚えてはおるまい」

 確かに覚えていない。そんなことがあったのか。

「まだこんな大きなビルが建つ前さ。門下生もこれほど多くはなくてね。一人一人の顔も鮮明に思い出せる。弟子全員が可愛くてしかたなかった」

 飛殿は自嘲気味に笑った。

「それだけに、夏雄が地下の格闘技賭博に出ていると聞いた時は、頭が沸騰した。矛を止める、と書いて『武』だ。私の教える空手は、理不尽な暴力に対抗するためのものだ。そう、教えてきたつもりだった。その私の愛弟子が、暴力団の運営する賭博場で、空手をただの暴力にかえて振るっておったのだ。私は許せなかった」

 ドシン、という、自らの拳を掴む音。飛殿は応接用のソファに座ったまま、その動きを繰り返した。

「頭に血が上った私は、賭博場に乗り込んで行って、ヤクザ相手に大立ち回りを演じてしまったよ。思えば私もまた若かったのだな。ひと悶着もふた悶着もあったが、とにかく夏雄を組織から抜けさせることはできた」

「それでも、破門ですか」

 飛殿は苦渋の顔で頷いた。

「けじめが必要だったのだ。あいつにも。……私にも」

 重苦しい声だった。

 沈黙がやってきた。

 そのしじまを破ったのは、ノックの音だった。

「館長」

 師範代の加納が入ってきて、飛殿に耳打ちをした。

「えっ。そうか。わかった」

 飛殿は立ち上がって、冬馬に言った。

「ちょっと電話をしてこねばならん。少し待っていてくれ」

 そうして急いで館長室を出て行った。

 残された冬馬に、加納が言った。

「こっちの部屋で、待っていてくれるかい?」

 案内された隣の部屋に入ると、そこは小さめだが、立派な造りの道場だった。

 壁には年季の入った木製の名札が並んでいる。

「1階は少年部。2階は成年部。3階は女子部。4階は選手部」

 加納は道場の真ん中にゆっくりと足を進めていった。

「そしてこの5階の館長室付きの道場は、内弟子用のものだ」

 振り向くと、加納の笑みは消えていた。殺気を感じて、冬馬は首を振った。

「勝手なことをしていいんですか」

「館長の電話は長くなる。時間はあるから心配しなくていいよ」

 冬馬は強くなる殺気に、思わず身構えた。

「夏雄先輩と私は、飛殿道場の竜虎と呼ばれていた。面はゆいがね。夏雄さんが首筋に入れていた竜のタトゥーのせいだ」

 加納は、冬馬と向き合った状態で重心をゆっくりと下げていった。

「竜と虎。どっちが強いと思う」

「……」

「私はこの呼ばれ方が嫌いだった。そう並べられると、誰だって、虎のほうを軽んじる」

 オーソドックスではあるが、どっしりした重厚感のある構え。冬馬はその加納に、父の姿を思い浮かべて重ねた。

(なるほど。確かに同門だ)

「なんでですか」

 冬馬の言葉は足らなかったが、相手には通じた。

「さっき館長は私にやらせなかった。私が教え子たちの前で恥を掻くかもしれないと考えたのだとしたら……。それが館長の眼鏡違いであることを、証明しなくてはならない」

「いやいや。あんたが勝手なことしてたから、止めたんでしょ」

 加納は首を振った。

「館長は宮地の時から見ていたよ」

 短い言葉だったが、もうそれは開戦の合図と同じだった。

(今度は防具なしかよ)

 部屋には二人のほか誰もいない。邪魔は入らない。実戦に等しい組手だ。

 冬馬は思いついたことを、とっさに口にした。

「俺が勝ったら、教えて欲しいことがあるんだけど」

 加納のこめかみに力が入るのが見えた。

「……いいだろう」

 そうして、互いに構えたところから、戦いが始まった。

 身長は、185センチの冬馬に対して、加納の方がやや低い。しかし、体重は加納のほうがありそうだった。

「えやあ!」

 いきなり加納の上段回し蹴りがきた。とっさにガードした手が痺れる。

(この人やばいぞ)

 ゾクリとする。

 先日、小熊の家で戦った時は、弟君にはどうやって怪我させないように終わらせるかを考えていた。そして小熊の祖父との戦いでは、相手が暗器を飲んでいることに気づき、どうやってそれを使わせないように終わるか、模索していた。あの時の冬馬は緊張こそしていたが、なりふり構わず全力で戦ったわけではなかった。

 だが今度の相手は、父夏雄にも匹敵する実力者のようだ。とても余計なことを考えていられなかった。

「ふううう」

 距離を置いて構え直した相手と見つめ合いながら、冬馬は息吹きを行った。




 10分後。道場の床に正座した加納の前で、冬馬はあぐらをかいて座っていた。

 お互いに荒い息を吐いている。まるで1時間にも感じられた濃密な戦いだった。

 冬馬は自らの身体の、痣のできた場所を触って、骨が折れていないか調べていた。

 加納は負傷箇所の点検よりも、呼吸を整えるのを優先しているようだった。

 しばらくして、加納がようやく口を開いた。

「それで。なにを訊きたい」

 余計な言い訳はしなかった。すがすがしい態度だった。

「最近ここで、心霊現象的なことが起こってると聞いたんですけど」

 その言葉に加納は驚いて、思案したあと数回頷いた。

「そうか。お前も、夏雄先輩のいた興信所に出入りしているんだな」

 今度は冬馬が驚く番だった。母のことは聞いていたが、父もそうだったのか。

「ということは、女子部から仁科さんに相談がいったんだな。道理で変な連絡があったと思ったよ」

 加納は一人で納得している。

「で、どうなんですか」と冬馬が重ねて問うと、加納はふう、とため息をついて立ち上がった。

 案内されたのは、一つ下の階にあった倉庫のような場所だった。

「おお」

 部屋の中には、所狭しと様々な形のトロフィー、盾、旗の類が飾られていた。所属選手がとったものや、道場が主催する大会の準備品などだろう。

 その奥に、布を被った大きな看板のようなものが立てかけられていた。天井につくほどの大きさだ。加納が布を取ると、『松濤館流 飛殿派 国際空手道場』という縦書きの文字が飛び込んで来た。

 冬馬が来るときに、玄関の横で同じ看板を見たばかりだった。しかし、取り外されて倉庫に仕舞われていた目の前の看板は、異様なまだら模様の汚れがその表面を覆っていた。

「手……」

 思わず冬馬はうめいた。その汚れは、泥のついた無数の手のひらが看板全体を叩いたかのようだった。

「たちの悪い悪戯だ」

 加納は吐き捨てるように言った。

「やった連中も目星はついている」

 冬馬はさらに近づいて見てみたが、泥に見えたそれは、黒ずんだ煤のようだった。全体を見渡すと、あらためてその異様さに気づく。天井付近の高さまで、手の跡はついていた。どうやってつけたのだろう、という疑問がまず湧いた。そして、さらによく見ると、その手のひらはどれも形や大きさが微妙に違う。一体何人でこんな妙な悪戯をしたというのだろうか。

 その手形の中に、女性と思われる細いものや、子どものものとしか思えない小さな手のひらを見つけて、冬馬はゾクリとした。

「このところ、地元の暴力団が、うちの会員を勧誘する事案が増えていたんだ」

 加納は眉間に皺を寄せた。

「会員にはヤンチャな子も多い。友人、親戚関係のつてで、昔からそういう勧誘もあったが、最近は明らかにうちを狙い撃ちしてきている」

 加納が冬馬を見た。

「昔、お前の父、夏雄先輩が所属していた地下格闘技賭博だよ。和倉会というヤクザがやっている。近年、急に規模が拡大してきて、選手の青田刈りをやっているらしい」

 和倉会。

 冬馬は最近その名を聞いたばかりだった。眩暈のする思いだ。どうしてこう、自分の周りですべてが一斉に動き出すのだろう。

「そうした接触には、絶対厳禁の通達を出していたんだがな。つい先日、毎年春にうちが主催でやっているオープン空手大会があったんだ。オープンとは言っても、上位入賞者はうちの選手が占めるのが通例だったが、今回は荒らされた。和倉会の仕掛けだ」

 バシン、と加納が自分の拳を握った。さっき館長がやっていたのと同じ癖だった。

「一般参加者がキックまがいの空手で勝ち上がり、決勝で思い切り反則攻撃を仕掛けて反則負けになった。明らかにはじめからそのつもりだった。あいつは」

「決勝って。そこまで行けたんなら、めっちゃ強いんでしょ。そんなやつがヤクザの手先だったっていうんですか」

「うちの門下生には警察の人間もいる。調べてもらったら、和倉会の香取零(かとり れい)という組員だった」

 バシン、という音が大きくなった。

「私は、今年は裏方だったが。もしまたやつが荒らしに来るようなら、次はこの手で叩き潰す」

 加納は殺気を込めた声で静かにそう言った。

「この看板も、その和倉会の嫌がらせだと?」

「ああ。女子部を中心に、心霊現象だのと、妙な噂が立っているのは知っているが、ことを大げさにしたくなかった」

 それで見て見ぬふりになったわけか。

 冬馬はふと気づいたことを口にした。

「もしかして、館長がアメリカから帰ってきたっていうのは、その和倉会のせいですか」

 加納はふう、と深くため息をついた。

「留守を預かった私の不徳だ。アメリカで新道場を建設する計画のさなかにだったのに、館長の耳に入ってしまった。あっちも、なにもかも途中だったから、緊急帰国でめんどうなことになっている。今も、その関係の国際電話だ」

 そういえばずいぶん経つが、まだ館長は電話中らしい。その館長から、かつて父夏雄の時にはそのヤクザのところに乗り込んで大立ち回りをした、という話を聞かされたばかりだ。

 冬馬は、なにか不穏なことになりそうな予感がしていた。

 バキン。

 ふいに、大きな音がした。看板からだ。

 加納と冬馬の見ている前で、看板の手形のあたりから衝撃音がした。

 ミシ、ミシと嫌な音がしたかと思うと、バキン、と手形が凹んだ。

「な、なんだ」

「離れて!」

 冬馬は加納に叫んだ。

「あっ」

 バアン、という破裂音とともに看板が砕け散った。とっさにガードした顔の付近に、破片が当たる。

「な、なにが起こったんだ」

 加納は唖然として立ち尽くしている。看板は完全に破壊されていた。

「静かに」

 冬馬は息を止めて、周囲を見回した。部屋の中には、加納と冬馬の二人のほか、誰もいない。しかし、なにか、別の誰かがいたような、不気味な気配の残滓を感じた。

「うっ」

 ヒヤリと頬を撫でられた感覚。目に見えないなにかだ。冬馬は看板についた手の形を想起した。それが去って行くとき、冬馬は、その感覚に覚えがある気がした。

 すぐに思い出せた。地下だ。地下の喫茶店。あれは、角南グループの二岡会長と部長が会っていたところに、野々口と二人で乗り込んだ時のことだ。あの時感じた、何者かの気配。それと同じものを、今感じている。

 冬馬は、無数の透明な手が、どこかへ去っていく光景を幻視した。

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