343『第79話 日常31 飛殿道場 1』

 丘陵研究会にもたらされたその依頼は、冬馬にうってつけのものだった。

 市内の空手道場で起きた奇妙な出来事を調べて欲しい、というものだ。しかし、経営者はそれを見てみぬふりしているようで、怖がっている女性会員の有志一同が依頼してきたらしいのだ。

「あんた空手やってんでしょ。ちょうどいいじゃない。体験入会でもして、ちょちょっと調べてきたらいいのよ」

 七緒が無責任なことを言う。それに対し小熊が疑念を呈した。

「しかし冬馬さんは相当な腕前ですよ。体験入会にしては不自然じゃないでしょうか」

「じゃあ、あれよ。道場破り」

 そう言って七緒は、アチョー、と手刀を突き出した。

「勝手なこと言うなよ。じゃあ七緒が体験入会してきたらいいじゃないか」

「げ。そういう流れはまずい」

 七緒が部室を見回すと、野々口やモリゲンが急に視線をそらして壁際の棚を眺めだした。

「小熊ちゃん行きなさいよ」

「実は私、その道場むかし通ってたことがあるんです。色々習ってたんで、忙しくてそのうち行かなくなって。気まずいんですよ」

「なによそれ。そういやあんた、うちの剣道場にも最近顔出してないじゃない」

「学校の勉強もありますし、お祖父ちゃんの特訓と、モリゲンさんに習ってる柔道と、この丘陵研究会でもう手一杯なんですって」

「だから七緒が行けってば」

「いやよ。冬馬行きなさいよ」

「みんな静かにして」

 部長が手を叩いた。

「冬馬くん。あなたが行きなさい。連絡はしておくわ」

 有無を言わせぬ部長の一言に、冬馬はしかたなく頷いた。彼は普段バイトをしてないので、こういう依頼でもらえるバイト代は貴重な収入源なのだ。普段のバイトを禁じているのが、当の部長なので、マッチポンプという気がしないでもないが、冬馬は深く考えないようにしていた。



 その空手道場の体験入会の前日。冬馬の住むアパートの部屋に、実の父である黒谷夏雄(くろや なつお)がやってきた

 突然の訪問に驚いている冬馬に、父夏雄は一升瓶を差し出した。有名な銘柄の焼酎だった。

「明日、飛殿(ひでん)先生の所に行くんだろ」

「どうしてそれを」

 冬馬が行く空手道場は、『松濤館(しょうとうかん)流 飛殿派 国際空手道場』という名前の、大きな道場だった。駅前の電車通りに、大きなビルを構えている。

「元の依頼に、俺の古い知り合いが噛んでんだよ。わざわざ連絡してきやがった」

 夏雄は忌々しそうにそう言うと、冬馬の胸に一升瓶を押し付けた。

「俺は飛殿館長に空手を叩きこまれたんだよ。まあ、なんだ。恩人だ」

 照れくさそうに言う父が、冬馬には新鮮に映った。

「アメリカに支部を作りに行って、長いこと日本にいなかったんだが、最近帰って来たみたいでな。まあ、よろしく伝えておいてくれや」

「そんな恩人だったら、自分で会いに行ったほうがいいんじゃないか」

「俺は会えねえんだよ」

「なんで」

「破門されてんだ」

「破門」

 冬馬は父の足元から頭の先まで眺めた。中学まで自我がなかったと言われたほどの不良少年が、そのまま不良中年にさしかかっている姿を。

「なんで破門されたんだよ」

 父はばつの悪そうな顔で頬を指でかいた。

「ヤクザのやってる賭け試合に出てな」

「なにそれ。こわ」

「ウルセエな。とにかく、それちゃんと渡せよ。オヤジの好きな酒だからな」

 そう言って夏雄は、冬馬の脇腹を一発どつき、去って行った。

 冬馬は、脇腹をさすりながら、その乱暴者の父が、『オヤジ』と呼んだ飛殿という人物に、初めて興味を抱いていた。




 次の日、冬馬は電車通りに面した5階建てのビルの前に立ち、その威容を見上げていた。敷地面積は意外と狭いのでそれほどの圧迫感はないが、空手道場でビルを建てるというのは、相当なものだ。もちろん今までも前を通ることもあり、よく見知った道場だ。ただ、訪れたことはなかった。

 冬馬も空手を習っていたとは言っても、実の父親に叩きこまれただけで、こういうところに通った経験もない。

 ちょっとドキドキしながら玄関から入ると、受付らしきところにいた守衛さんから、2階へ行くように言われた。

 名簿を見ていたので、入会希望の連絡はちゃんとしてくれているらしい。1階にある広い道場をちらりと覗くと、子どもたちがたくさんいて、身体を動かしていた。

 2階のフロアには、大人たちの姿があった。ただ、広い道場に人数もまばらで、腕時計を見るとまだ午後4時台だった。勤め人の会員などはまだこれから集まるのだろう。

 冬馬が道場に入ると、すぐにコーチらしい人がやってきた。

「やあ。聞いてるよ。入会希望だってね。小川冬馬君」

 穏やかな微笑みを浮かべるその人の口ぶりに、嫌な直感が走った。

「黒谷夏雄先輩の、息子さん」

 彼はニコリとして右手を差し出してきた。差し出された手を見つめて、冬馬は仕方なく握った。

 潜入調査の依頼じゃねえのかよ。完全にバレてんじゃん。

 冬馬は深いため息をついた。

「師範代の加納(かのう)だ。よろしく」

「はあ。よろしくお願いします」

 師範代と名乗った男を改めて観察すると、父夏雄と同年輩ほどで、背も高くガッシリした体格だ。もちろん、道着の帯は黒だった。

「道着は持ってきてる?」と訊かれて、頷くとさっそく着替えさせられた。冬馬は白帯しかもっていなかった。

「へえ。良い筋肉のつきかたしてるなあ」

 冬馬は頭のてっぺんから足先まで舐めるように見られて、なんだか恥ずかしくなった。

「空手は夏雄さんに習ってたの?」

「まあ一応」

「ふうん。それでうちに入会希望って、いい度胸してるね」

 加納は底意ない口調でそう言ったが、冬馬は緊張した。

「宮地(みやじ)!」

 突然加納が鋭い声を出した。

 すると奥で練習する会員についていたコーチが、走ってやってきた。

「実力を見たい。相手してやれ」

「押忍」

 宮地と呼ばれた男は、猪首で、分厚い身体をしていた。鼻がつぶれていて、相当に場数を踏んでいそうな顔つきだ。

「あ、いや俺は」

 冬馬に有無は言わせず、加納は道場の端を空けさせた。

「うちには組手用の型もあるけど、どうせ夏雄さんは教えてないでしょう。防具を貸すから、試合形式で」

 わけのわからないうちに、冬馬は頭部と胴にプロテクターを付けさせられ、宮地という男と戦わされることになってしまった。

 周囲には、いつの間にか道着姿の男たちが集まってきて、周囲を取り巻いている。

(まずいなあ)

 冬馬は嫌な汗をかいていた。どうやらただでは帰してくれない雰囲気だ。

 破門になったという父の名前はここでは未だに健在のようだった。悪い意味で。

(くそっ。なんでこうなるんだよ)

 父を呪いながら、冬馬は宮地と向き合った。

「互いに礼。はじめ」

 加納の言葉で試合が始まった。

 宮地はいきなり突進してきた。突きを繰り出しながら接近し、身体をぶつけてきた。冬馬が身体を押して突き放そうとすると、隙間が空いた瞬間に、鋭い蹴りが来た。引いて躱したつもりだったが、出っ張った胴のプロテクターに当たってしまった。

「技あり」

 加納の宣言。ギリギリで躱し過ぎたようだった。明らかに浅い打撃だったが、ポイントを取られた。

(ああ。そうなるのか。それならそれでいいや)

 相手がそういうつもりなら、冬馬は適当にやって、そのまま負ける気になっていた。

「構えて」

 続きだ。向かい合った宮地はニヤニヤしている。

「はじめ」

 また前に出てくる宮地に、足を引きながら冬馬は突きをいなした。身体がぶつかると、宮地は冬馬の脇腹のあたりに連打を入れ始めた。

「てててっ」

 冬馬は顔をしかめる。相手の肩を掴もうとしたが、それを振り払われ、また脇腹に鉤突き。もつれるように道場の壁にぶつかる。

『待て』がかかるかと思ったら、加納はなにも言わなかった。

「うおおおおお」

 宮地は冬馬を壁に押し付ける格好で、そのまま腹を殴り続ける。誰も止める気配はない。

(リンチする気かよこいつら)

 宮地が首相撲に入ろうと、腕を絡めてきた瞬間だった。

 冬馬は右足を外から鋭く回して、相手の左ふくらはぎを蹴った。小さな動きだったが、宮地は、「おっ」とうめいて左足を引いた。

 わずかな距離ができた瞬間だった。冬馬の右上段回し蹴りが、急角度で宮地の側頭部に直撃した。

 頭部のプロテクター越しだったにもかかわらず、宮地は倒れ込んだ。追撃しようとした冬馬を、加納の、「待て」という声が止めた。

「一本。それまで」

 おおお。と周囲から声が上がる。

「実戦的な近接カーフキックだったな。みんなも見たか?」

 加納が周囲を見回す。

「通常、ここまでの接近戦だとカーフキックは相手の脛に当たってしまい、むしろこちらがダメージを受けることがある。そのため、彼は足首の形を底屈(ていくつ)ではなく、背屈(はいくつ)にして蹴ったのだ。それでも、微妙な角度調整が必要で、実戦で出すには高度な技術が要求される」

 加納は自ら構えて実演して見せた。

(あの一瞬で、よく見てるなこの人)

「素晴らしい鍛錬だ。冬馬君。失礼した」

 頭を下げる加納を見て、冬馬はさらに嫌な予感に襲われていた。

「私が相手をしよう」

 やっぱりそうなるよね。

 つい先日も、小熊の家でそっくり同じ流れを経験したことを思い出し、冬馬はクラクラしていた。

 その時、「待て加納」と鋭い声がかかった。

 ザザッと人の壁が分かれる。現れたのは、貫禄のある五十代半ばほどの道着姿の男だった。

「私が館長の飛殿だ。小川冬馬君だね」

 ダンディな口髭を生やした壮年の男は、魅力的な笑顔を浮かべて握手を求めてきた。年齢のわりに毛量が多く、前髪がもこもこしている。男前だ。

 冬馬はその手を握りながら、部長の顔を思い浮かべて呪った。もはや潜入調査がどうとかいう話ではなかった。

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