O市街の剣道場、中町剣友館ではその日、夕方の部が終わり、稽古の熱気が残る道場の床に、若先生が一人正座をしていた。
若先生は道場主の孫で、中町雄太という22歳の青年だった。彼は父親の自転車屋を手伝いながら、祖父の剣道場も切り盛りするという忙しい日々を送っていた。
神棚に向かって深々と座礼をして、ようやく立ち上がると、もうひとり道場に残っていた道着姿の女性が、面てぬぐいを外しながら近づいてきた。
「あっつぅ」
「お疲れさまでした、まひろさん。今日もありがとうございます」
雄太は丁寧な言葉づかいで頭を下げた。
山中まひろは、子どものころからこの中町剣友館に通っていた古株で、若先生の先輩にあたる女性だった。現在では、時々こうして稽古の手伝いに来ていた。
「おまえ、こないだの社会人大会、出なかったのか」
まひろはハスキーな声で咎めるように訊ねた。雄太は笑った。
「ええ。今の自分の稽古では、うちの看板に泥を塗ってしまいますから」
長身のまひろよりも小柄な雄太は、それでも中学・高校と全国大会の経験もある強豪選手だった。しかし、道場での指導を任されるようになってからは、剣道との向き合い方も変わってしまった。
険しい顔のまひろを見て、慌てて雄太は付け加えた。
「あ、すみません。手伝っていただいてるのに」
「いや、別にいいんだけど」
まひろはてぬぐいで汗を拭きながら言った。
「先生はまだ入院中なのか」
「ええ。長引くかも知れません」
道場主である祖父が倒れてから、若先生である雄太はまひろの手助けもあってなんとか道場を運営していた。
「そういえば、ちひろさんから絵葉書もらいましたよ」
雄太は明るい表情で言った。
「ああ。うちにも来たよ。二人目のな」
「ふっくらしましたよね」
「あいつ、昔はオレとそっくりだったんだけどな」
ちひろというのは、まひろの双子の姉で、やはり中町剣友館のOGだった。
「昔よく二人で入れ替わるイタズラしてたんだけど。お前はなんでか全然ひっかからなかったよな」
「ははは。そんなことありましたね」
「髪型まで入れ替えたのに、なんでひっかからなかったんだ? 先生だって騙せたのに」
「僕は顔かたちで女性を見てなかったからじゃないですか」
「顔かたちで見てなかったら、どこで見てたんだよ」
まひろが訊ねると、雄太は爽やかな笑顔を浮かべながら、自分の胸を右手で叩いた。
それを怪訝な顔つきで見た後で、まひろはハッとして自分の胸を見下ろし、ついで長いリーチで雄太の横面を張った。
バチン、という音がした。ふいを突かれた雄太は目を白黒させた。
「ボケが」
そう言い置いて、まひろはドスドスという足音を立てて更衣室に消えて行った。
残された雄太は、衝撃の残る頬を押さえて、わけのわからないまま立ち尽くしていた。すると、道場の入り口からおずおずと、一人の女性が入って来た。
「若先生ぇ。まひろさんにそれは禁句っスよ」
「あれ? 音田さん。まだいたの」
子どもの頃からの中町剣友館の門下生である音田七緒は、大学に入ってから頻度は減ったものの、まだ時々通っては汗を流していた。今日も稽古に参加していた。
「ちょっと忘れ物を。てか、若先生。まひろさんは、ちひろさんより胸が小さいの気にしてんですから。なにナチュラルにセクハラしてんすか」
「ええー? 僕はただハートが。心の形が違いますよって話を」
(あいかわらず天然だなあこの人)
七緒は若先生を残して更衣室に向かった。
(まあそこがかわいいんだけど)
七緒は昔、若先生に告ったことがあった。
汗の匂いの残る更衣室に入ると、まひろが脱いだ道着を乱暴に袋にしまっていた。
「どうした七緒。忘れ物か」
「いや、まひろさん、稽古の時になんか後で話があるって言ってたじゃないですか」
「ああ、そういや忘れてたわ」
ジャージに着替えながら、まひろは言った。
「前に言ってたお前のボーイフレンド。なんていったっけ。そうそう、冬馬。小川冬馬だ」
「ボーイフレンドっていうか、ただのサークル仲間ですけど」
「その冬馬な。ヤっちった」
「はあ? ヤッち?」
「たまたま街で見かけてな。声かけたらホイホイついてきやがったんでな。お前に悪りぃとは思ったけど、つい流れで」
「はあああああああ? まひろさん、冬馬と、その。。。ッッチしたんスか」
「お前も別にいいって言ったろ。まあ心配すんな。一回ヤったら満足した。返すよ」
「ま、満足って」
七緒は衝撃を受けていた。あらためて目の前の女性を、頭から足まで見回す。シャープな顔立ちに不健康そうな目の下のクマ。着替え終わって黒のチョーカーをつけると、ダボダボのジャージを着てなお、謎の色気がある女性だった。
ていうかこの人、レズじゃなかったのか!
そっちの方にも衝撃を受けていた。
「じゃあな。あと、あいつ、デケェから覚悟しとけよ」
そんなわけのわからないことを言って、まひろは帰っていった。
更衣室に残された七緒は、ハッと我に返ると、すぐさま携帯電話を取り出した。
「おねえちゃあああああん! と、冬馬が! 冬馬がぁ!」
その叫び声を聞きつけて、若先生が、「どうした?!」と飛び込んで来たが、「女子更衣室に入ってくんじゃねー!」と七緒にショルダーバックをぶつけられて、「ギャ」と言って転んだ。
341『第77話 日常29 若先生』
posted by 巨匠
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まひろ→若先生→京介
な三角関係の気配を感じるぜ…