322『第58話 もつれ太夫 襲撃編 1』

 梅雨の季節が始まろうかという時期だった。

 丘陵研究会の面々は、珍しく揃って外に出ていた。大学の裏手にある、羊田山(ようだやま)という山に登っているのだ。標高は100メートルちょっとだが、頂上のあたりは鬱蒼と生い茂った林になっており、見晴らしはよくない。おかげでピクニック代わりに足を踏み入れる大学生も少なく、人気のない山だった。

「低っくい山のくせに、道が悪いのも腹立つわねえ」

 七緒が歩きながら大きな声で文句を言う。

 そのほかの面々は舗装されていない山道を黙々と歩いていた。

「ああ、ほら見えてきたよ」

 眼鏡をかけた白髪の初老の男性が、木々の開けた場所を指さした。考古学研究室の三島教授だった。丘陵研究会の顧問を引き受けてくれている人物だ。

「琴歌亭(きんかてい)だ」

 三島教授が指さす先には、垣根に囲まれた平屋の日本家屋があった。すぐ下は崖になっていて、その上に建てられている。ちょうど大学のある方を向いているので、そのあたりは多少は見晴らしが良さそうだった。

「わー。なんかお洒落ぇ。ステキ」

 モリゲンが身体をクネクネさせる。

 山道を外れて石畳を通り、こぎれいな玄関にたどり着くと、三島教授が鍵を取り出して開けた。

「さあ入ってくれ」

「ひょー」

 七緒が勇んで飛び込んでいく。靴を脱いで中に入ると、すぐに大きな和室があった。

「わー、綺麗ですね」

 小熊も感嘆の声を上げる。縁側のすぐ外は庭になっていて、整えられた植物や、池があった。いわゆる池泉庭園だ。

「この琴歌亭は、元々、市内の紡績会社が持っていた保養地でね。うちの大学の農学部が用地を広げる時に、一緒に買い取ったんだ」

 三島教授がリュックサックを下ろしながら説明をしてくれた。

「庭園も含めて、歴史ある建物だから、整備を怠らないこと、という条件付きでね。今でも農学部の学生が持ち回りで手入れをしているよ」

 この琴歌亭は、大学教務に申請を出すと、学生サークルでも借りることができる。ただ、あまり使われると建物が痛むので、週に一組のみ、とされていた。多くのサークルが遠足やレクリエーションに使うために、常に予約待ちの状態で、今回丘陵研究会が借りられたのも、1年前の申請がやっと通ったものだった。

「あ、拙者お茶を沸かしてきます」

 野々口が言うと、部長が、「私も」と台所の方へ向かった。

 琴歌亭は学生に貸す時は、乱暴に扱って施設を破壊しないよう、大学教員のお目付け役が条件になっているので、今回は顧問の三島教授に同行いただいているのだった。

「今日は暑くもなく、気候がいいねえ」

 教授はニコニコと庭を眺めている。蝶が数匹、池の中の苔むした岩のあたりを巡るように飛んでいて、趣深い光景だった。

「あんたたち、部長に感謝しなさいよね」とモリゲンが言った。

「大学に入ったばかりの一回生がここに来られるのも、部長が1年前から申請を出してたから、なんだからね」

「はーい。それはそうと、はやく昼ご飯にしようよ。腹減ったぁ」

 七緒はそう言うと、冬馬が背負って来た大きなリュックサックを開けた。全員分のお弁当が入っているのだ。それも奮発して、デパートの仕出し弁当だ。用意して来た茶菓子の類も含めて、すべて丘陵研究会の部費から出ている。その潤沢な部費の原資は、丘陵研究会が手伝っている興信所の仕事の対価や、角南グループの二岡会長からのスポンサー料などだった。

 風景を堪能しながら、しばしお弁当タイムとなった。

「この琴歌亭を建てた紡績会社の名物社長は間崎さんと言って、大変な数寄ものでね。もう亡くなったけど、県内にいくつもこういう庭園や茶室なんかを残しているんだ」

 三島教授は真っ先に弁当を食べ終わって、ゆっくりとお茶を啜っている。

 元々、考古学研究室でフィールドワークを長く務めた人なので、発掘調査の合間に食事を掻き込んできた癖が、今も抜けないのだそうだ。そんなかつての仕事の鬼も、今は後進の指導がもっぱらで、あとは定年を待つのみ、という、オーラの抜けた佇まいだった。

「琴歌亭が立つ前は、ここにお寺があったそうだよ。確か、宇喜多家の家臣の何某が、碁の達人だった住職と打ったという棋譜が伝わっているね。なんでもその時、三コウが現れて、勝負無しになったという逸話だけど。これは本能寺の変の前夜、信長の目の前で行われた勝負の最中に三コウが現れて、凶兆となった、という有名な話を下敷きにしている節があるんだな。そのほかにも面白い話があって」

 三島教授はうんちくを語り始めると止まらない。

「ちょっと失礼します」と部長がトイレに立った。

(長えな。この人の話)

 冬馬も、せっかくなので庭を散策してみたかったが、聞いてあげなきゃ悪い気がして、席を立ちにくかった。すいっと自然に消えた部長は、タイミングを読むのが上手い。

「そうそう。今の季節もいいけど、何といっても琴歌亭は秋だよ。それも晩秋だ。このあたりは紅葉(もみじ)の木が多くてね。ここから見える景色一面に、燃えるような紅葉(こうよう)が広がるんだよ」

「えー。見てみたーい」

 モリゲンがくねくねする。小熊や七緒も、口々に同じことを言った。

「でもその季節は人気があるからね。我々が権力を使って、教授会なんかで抑えちゃうんだ。学生の予約はなかなか取れないよ」

「えーなにそれぇ。ひどいわ」

 モリゲンの文句に、教授は悪びれもせずハハハと笑った。

 冬馬はついに席を立った。靴を持ってきて、縁側から庭に出る。山の麓から登ってきた風が、頬を撫でるように通り抜けていく。苔むした縁石の池に、背の低い松の木の枝がかかっていて、なんともわびさびを感じさせられる。実際のところ冬馬には、わびとさびの違いもわからないのであったが、とにかく良い気分で庭を歩いた。

 ふと、池のなかほどに、人影を見た。

「え?」

 女性だ。冬馬と同じくらいか。さっきまで誰もいなかったのに。というか、池の水の上に立っているように見える。ありえない光景だった。

 黒髪でやや幼い顔立ちをしている彼女は、ぼうっとした表情でたたずんでいた。藤色の綺麗な和服を着ている。この苔むした園庭には似合う格好だった。

 とっさに冬馬は室内を見た。外を見ていた小熊も気付いてこちらを凝視している。ついで野々口も。ギョッとした表情だ。

 幽霊の類かと思ったが、冬馬の霊感はそれを否定していた。しかし、突然現れたことといい、生身の人間には見えなかった。

「あのー。池のなかは危ないですよ」

 冬馬にはそんな間抜けな言葉しか出てこなかったが、女性の反応はなかった。

 室内組の野々口が、三島教授に訊ねた。

「この琴歌亭ですけど。なにか着物姿の女性にまつわる言い伝えって、ないでしょうか」

「女性の?」

 三島教授は、外の庭園に現れた人物に気付いていない。

「江戸時代とか、明治時代とか。使用人の女性が無礼打ちにあった、みたいな……」

「番長皿屋敷みたいだなあ」

「なんでもいいんですけど。娘さんが病気で亡くなったとかでも」

「うーん。特に聞いたことないねえ」

 七緒とモリゲンも気付いて池の方を見た。その着物姿の女性を、霊感のある全員が見ている。

 どうする?

 冬馬は池に入って女性を手で引こうか考えた。たぶん幽霊ではない。触れられるのではないだろうか。

 池に淵に立って、水面を見下ろした時、クスクスという笑い声が聞こえて顔を上げた。

「あ」

 女性が、仮面を被っている。いつのまに。能面でよく見るような、白い顔の女性の面だ。

 女性が面を被った瞬間、気配が変わった。一瞬にして、人間ではなくなったような感じ。能の面は神様になるための装置だというのを冬馬は聞いたことがあったが、その意味がわかったような気がした。

 クスクスクス。

 笑い声がその面の下から漏れている。冬馬はなぜか、値踏みされているように感じた。

「みんな、どうかしたの」

 トイレから戻って来た部長が、室内の雰囲気を感じてそう言った。冬馬が目を離したのはその一瞬だった。視界の端で、着物の裾が翻るような動きを見た気がしたが、次の瞬間にはもう忽然と能面の女性は消え失せていた。

 冬馬は、ズボンが濡れるのも構わず、池に入った。それほど深くはない。膝上くらいだ。中ほどまで進んだが、女性の姿はどこにもない。池の底に沈んだわけではないようだ。

「ちょっとちょっと、だめだよ池に入っちゃ」

 三島教授が外を見て慌てて立ち上がった。

「子どもじゃないんだから!」

 わめく三島教授に構わず、冬馬は部長を見た。

(部長を避けた?)

 なぜなのかわからなかったが、冬馬はさっきの女性をどこかで見たことがある気がしていた。黒髪で黒目勝ち。どこか神秘的なその顔立ちは、部長に似ていなくもなかったが、それよりも、もっと似ている人がいる気がする。

 少し考えてすぐにそれがわかった。

 妹の秋奈だ。秋奈は妹ではあるが、冬馬より2歳年上だ。さっきの女性は同じくらいの年齢に見えた。小柄で、背格好も同じくらいだ。ただ、不思議な感覚だ。顔のパーツはどれを見てもたぶん異なっている。なのに、似ている気がするのだ。

 なにかこう……。

「出なさい冬馬くん」

 冬馬は部長の厳しい声に我に返った。そうして、ため息をついて、水を吸ってしまって重い脚を引っぱった。

この記事へのコメント
琴歌亭、もとは京子さん家の持ち物だったんだろうか?
Posted by 名無しのお弟子さん at 2026年01月12日 22:05
京子の父は船医みたいだから、祖父さんか曾祖父さんあたりが建てたのかな
Posted by 名無しのお弟子さん at 2026年01月14日 09:41
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