黒図稲荷の本殿に向かって、和装の人々がしずしずと歩いて行く。和服を着慣れた姿には違和感がない。そのだれもがこうべを垂れて、厳粛な表情をしている。神前式の、参進の儀だった。
その列の先頭。甲高い笙の音と、琵琶の響き。そしてひそやかに打たれる鼓のリズムにいざなわれて、黒い紋付き袴の花婿と、白無垢姿の花嫁が並んで歩く。
二人の顔は、白い狐の面で隠されている。背の高い樹々が頭上を覆う鎮守の森のなかで、ゆるやかに時が流れる空間だった。
拝殿に着き、修祓の儀で神主が大麻(おおぬさ)を振るう間も、二人は一言も発さない。
列席者全員の清めが終わってから、神主がかしこまって祝詞(のりと)を奏上し、ようやく花婿と花嫁は面を外した。
「黒図昴(すばる)です」
「黒鳥嬰子です」
嬰子は、はじめて見る黒図宗家の三男坊の顔を控えめに眺めた。
青白い頬に、優し気な目元。鬼が棲むと呼ばれる宗家に、こんな人がいたんだ、という感想を抱いた。
その時、昴もまた嬰子を見つめながら口を開いた。
「綺麗だ」
昴が20歳。嬰子が17歳。まだ年若い二人だった。
見つめあう二人に、神主が、「んんん」と咳ばらいをした。
それから、三献の儀、誓詞奉読と進むあいだ、嬰子は自分の胸に去来する高鳴りに、驚いていた。
そうして黒図昴は、黒鳥家に入った。黒鳥昴だ。
これまでも、黒道一族を祖に持つ、黒図家、そして黒鳥家は分家してからも血の交流を行ってきた。
黒図家が主家筋ではあるが、まれに黒図家から黒鳥家に入るものもいた。外に血を残すことも、万一の場合に家を途絶えさせないため、必要なことだった。
黒鳥の里では女性上位の伝統があったが、宗家出身の夫となると、事情が複雑だ。
「嬰子さん。一緒に食べよう」
はじめて二人きりで過ごす夜、嬰子は台所でもじもじとしていた。
明治大正昭和と時が下り、厳格な家父長的封建制度は社会から姿を潜めていったが、黒図宗家ではいまだその伝統を色濃く受け継いでいた。
家長が食事をしているあいだ、妻や女衆は配膳などの世話をするのみで、自身は台所で食事をとるのだ。
女性の立場が強い黒鳥の里ではそうしたことはないのだが、夫が主家である宗家の人間なのだからと思うと、悩ましいところだった。
「でも」
嬰子が引き続きもじもじしていると、昴が、「じゃあ僕もそっちで食べるよ」と言い出したので、慌てて居間のちゃぶ台の前に座った。
二人で住むには広い家だった。結婚に際して黒鳥一族の長である、惣領からあてがわれた木造二階建の家だ。
秋の初めで、家電製品もない古い日本家屋は、リィリィという虫の音に包まれている。
「その髪の毛、染めてるの? 黒に」
「はい」
昴に問われて、思わず前髪に触れた嬰子は、ハッとして、「すみません」と謝った。
食事中に髪を触るのは、無作法な行為だ。昴はまったく気にしない様子で、「ありのままの君が見てみたいな」と笑った。
嬰子はデンマーク人の父を持つハーフだった。もともとの金髪を、惣領から咎められて染めているのだ。
「噂はかねがね聞いていたよ。黒鳥の鬼子ってね。どんな怖い人だろうと、僕は怯えていたんだ」
嬰子は赤くなった。今の惣領の三人の娘のうち、子のいない長女の家に養子に入って以来、様々な不合理なしきたりへの反発から何度も問題を起こしてきた。義母は庇ってくれるが、惣領と、その後継者と目される次女からは徹底的に叱られ、しつけと称して様々な罰を受けてきた。
そうして矯正され、覆い隠されてきた、『自分』
夫はありのままの君が見てみたいと言う。
嬰子が黙っていると、昴は箸を置いて向きなおった。
「君が宗家に、恨みを持っていることは知っている。兄たちの愚行がわかっていても、僕には止められなかっただろう」
嬰子は身体を硬くした。
宗家への恨み。それは、たしかに忘れることができない。嬰子のなかでの、前時代的で不合理な因習の数々への怒りは、すべて黒図宗家に集約された。特に、数年前に突然黒図の御屋敷へ招かれた時に負った深い心の傷は、今も閉じられることはない。
結婚相手を探すうえでのことであっても、許されることではないはずだ。しかも、後に知ったが、彼らにはすでに許嫁がいたという。ただ、彼らは単に鬼子として音に聞く金髪娘に興味があって、黒鳥の惣領に差し出させたのだった。
かわるがわる行われる行為のあいだ、笑って感想を述べあう彼らの横顔を、脳裏に刻みつけた。
いつかその恨みを晴らす日のことだけを思って。
「僕らは、お家の歴史。しきたり。名誉。多くの不自由の中に生きている」
昴は嬰子のそばにやってきて、その手を取った。青年の手は細く、骨ばっていた。
「この結婚からして、家に決められたものだ。僕らの意思は無視されている。そんな二人だ。普通の夫婦が送る、当たり前の生活はできない。因縁としがらみが僕らの人生を縛り続けるだろう。でもね」
「はい」
嬰子は同じ目線に屈んだ昴を、挑戦的な目で見つめた。
「これからは、僕が君を守る。父や兄にはもう手を出させない。僕は君の夫だ」
嬰子は、握られた手から、青年の誠意が流れ込んでくるのを感じていた。
「そんな二人でも、幸せになれることはないなんて、決まってはいない。そうだろう?」
ハッとした。交差する視線のなかで、嬰子は過去を見て、昴は未来を見ていた。
本当に、そんな未来があるのだろうか。
「ご宗家さま」
握り返された手の感触を噛みしめながら、夫は、「昴でいいよ」と言った。
「昴さま」
「昴」
「昴、さん」
昴は苦笑して、嬰子を抱き寄せた。
「嬰子」
その胸のなかで、小さく頷いた嬰子は、明日、染めた髪を戻してみようかと思った。
晴れた日に、昴が庭をいじっていた。
「殺風景だからね」
昔、池があった跡地を直していたのだ。土を掘り返し、石積みで囲い、そこに用水路から水を引こうとしていた。 なかなかの重労働だ。
「お身体に触ります」
嬰子は心配してそう言った。
昴は身体が弱かった。少年時代から病気がちで、床についていることのほうが多い人生を送ってきたのだ。
『できそこないと、父や、兄たちからは疎まれてね。それで家を出されたんだ』
本人はそう言って笑っていた。
『私も、厄介者と疎まれてございます』
嬰子がそう言うと、彼は、『僕らはお似合いだね』と笑っていた。
実際のところ、黒図宗家の男子は早逝が多い。昔からの伝統だそうだ。神獣・九尾の狐を祖に持つ黒図宗家の男子は、妻を娶ったその日から、九尾の嫉妬という呪いにさらされるのだという。
それを防ぐには、妻を軽んじ、虐げるほかないのだとか。
嬰子は何度か見た、昴の母の顔を思い出す。まるで人形のように精気のない顔をしていた。昴の兄たちも、自らの母である彼女を、まるで使用人のように扱っていた。
しかし、昴は、嬰子を妻として愛した。嬰子はそのことに、言い知れぬ不安を覚えた。はじめて、二人で過ごした夜に、その床で嬰子は、夫に抱かれながら九尾の幻影を見た。嬰子は仮にも、多くの呪術を修めた人間だ。それがただの気の迷いではないことはわかっていた。
「本家の庭園にね、立派な池があるんだ」
「存じています」
「そこに咲く、睡蓮のかわいい花が、僕は好きでね」
昴は、土にシャベルを刺して、額の汗をぬぐった。
「昔、近くに来ていたクロード・モネの展覧会で睡蓮の絵を見たんだ。ああ、あの睡蓮をこんな風に絵にするんだ、と思って感動したなあ。それから、僕は、いつか自分の庭に、自分の睡蓮を育てて、絵に描きたいな、とずっと思っていた」
「絵を、描かれるんですか?」
嬰子は、昴の掘り出した土を小さな猫車に乗せて、庭の隅に往復した。
「練習中」
恥ずかしそうな夫の顔がまぶしかった。
「ご宗家さま!」
突然、野良着姿の中年男が走って来た。
「そんな庭仕事、私らがやりますから」
見ると、その後ろからも慌てふためいた様子で、彼の妻らしい女性も走って来ている。
隣の家の夫婦だ。隣とはいっても、広い田舎の土地なので、家はかなり離れている。彼らは、里に迎えた黒図宗家の息子の世話役を仰せつかっていた。
「いや、いいんだ。自分の庭くらい、自分で好きにいじりたい」
「私らが、惣領に叱られますから」
必死で言いつのる男に、昴は困った顔で両手を広げた。
「本当に大丈夫だから。それに僕も黒鳥の里に婿に入ったんだ。もう宗家の人間じゃない」
「そう言われましても」
被っていた帽子を取って、握りしめる男に、嬰子は頭を下げた。
「ご厚意はありがたく頂戴いたします。助けが必要な時は、遠慮なく言いますから」
「あ」
「ちょっと、あんた」
息を切らしながら遅れてやってきた彼の妻が、ズボンのすそを引っ張った。
二人が離れると、昴と嬰子は作業を再開した。
隣人夫婦は、その様子を遠巻きに見ながら立ち尽くしていた。
「あんなに睦まじいお二人なのに」
夫がぽつりと言った。
少年と少女といってもいい、若い二人が、肩を寄せ合って生きている。その姿に、涙がにじんだ。
隣人の妻も、目頭を拭った。
婿に来た、宗家の三男坊は、もう永くない命だと聞かされていたからだ。
「本当に」
それでも手を取り合って生きる若い二人を、隣人夫婦は涙を流しながら見つめていた。
冬が来て、逃げるように去り、やがて春が来た。
その春も、初夏の陽気に押し出されるようにして去ろうとしていたある日。若い二人の家の庭に、睡蓮が初めての花をつけた。
まさにその日。病院から帰ってきた嬰子は、夫の前に座り、頬を染めながら言った。
「授かりました」
その時のことを、嬰子はずっと忘れなかった。
夫の喜びと、胸に湧いた誇らしさ。抱きしめられた暖かさ。間に合った、という安堵。
そして、その後で起きた不思議な体験のことも。
「おいで。なにか着て、暖かくして」
夜、夫は嬰子を庭に連れ出した。
夫は、いつになく興奮していた。爛々と輝く瞳に、嬰子は不安を覚えた。
「なにをさるんですか」
昴は微笑みながら言った。
「できこそないと言われ、大人になる前に死ぬだろうと言われたこの僕が、子どもを授かった。こんなに嬉しいことはない」
「昴さん。私も嬉しゅうございます。あっ」
いきなり抱きすくめられて、嬰子は目を白黒させた。
「僕はね。父や兄から疎まれたから、外に出された、と言ったけど。それは身体が弱いから、というだけではないんだ」
「どういうことでしょう」
抱く力に、不思議な力強さがあった。
「ふふふ」
昴は、微笑むと何事かつぶやいた。
若くして陰陽道と、呪言道の秘術を修めた嬰子にも、聞いたことのない呪文だった。
次の瞬間、上空に向かって引っ張られるような感覚に襲われたかと思うと、抱き合った態勢のまま、二人は宙に浮きあがった。
「ええっ」
驚く嬰子に、昴は、「大丈夫。力を抜いて」と囁いた。言われたとおりに身体を預けると、昴は、「えい」と言った。
それからの時間は、まるで夢を見ているかのようだった。
嬰子は、昴に抱かれたまま、空を飛んだのだ。鳥のように、自由自在に舞い、頬に風を感じては、それが現実に起こっていることだと実感した。
「飛行、自在の術」
嬰子は絶句した。偉大な始祖、日備葦牙(ひびのあしかび)様が使ったという、絵巻物でしか知らない、陰陽道の秘技だった。
そんな奇跡のようなわざが、現代に再現されるなど思いもよらなかったし、それを、一緒に暮す夫が成しているということが信じ難かった。
「本家の大婆さまが言っていたよ。これほど、本尊様、つまり九尾様に愛された子はいないと。だから、きっとこの子は、すぐに本尊様に冥府へと連れていかれるだろうと」
月が、近くなった気がした。二人は、かなりの高度を飛んでいた。見下ろすと、月明かりに照らされて、夜の里がちっぽけに見えた。その地表にへばりつくように並ぶ家々も。
「僕は幼いころからそう言われて育ち、僕もきっとすぐに死んでしまうんだろうと思っていた。でも、君が」
昴の目に、涙があった。それが、風に舞って、飛び去って行く。
「君が、僕に子どもを授けてくれた。できそこないと言われた僕が、子を残せる。そんな幸せなことがあっていいんだろうか」
「昴さん」
不思議な重力場の浮揚感に包まれ、嬰子は飛行中にまったく身体の負担を感じていなかった。暖かく、優しい空間が周囲を覆っていた。嬰子は、金色の髪を夫の胸に埋めた。
「僕は、里じゅうに、伝えたい。この喜びを」
カッ、と稲妻が走った。月明かりに押し出されたように、雷雲どころか、雲一つない空にだ。
「宗家よ、九尾よ。音にも聞け。我が妻は、子は、なにものにも害させない。この僕が守る。わかったか!」
再びの雷光。それが里じゅうに走った。まるで千の竜が躍るさまのようだった。
嬰子は、その一瞬に、夫の背に生えた翼の幻影を見た。長く、巨大な翼だった。
なんという力だろうか。里にも、宗家にも、これほどの強大な術を持つ人間はない。
なのに。
地上にゆっくりと降り立った時、昴は、恥ずかしそうにはにかんだ。
その年の冬。昴は、子どもが生まれるのを待たずに、逝った。
糸が切れたように、と周囲の人間は言った。
けれど嬰子はわかっていた。夫が、避けられない九尾の呪いを、一身に引き受けて死んでいったことを。
葬儀のあいだ、蔑んだ目で死んだ夫を見ていた、彼の父や兄たちには、きっとわからないだろう。昴の強さの形が。人形のような妻を従えて、生きながらえている彼らには。
月日が過ぎ、里を離れた嬰子が久しぶりに帰郷した時、連れてきた小川冬馬という青年に、寝間着を出してやろうとした。
しかし、見つけた着物は、小さすぎて入らないと言われてしまった。
「こんなに小さかったかのう。儂の旦那さまは」
その夜、嬰子は寝間着を胸に抱いて眠った。
321『第57話 日常26 黒図昴』
posted by 巨匠
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父の能力強すぎ
ええ話や