321『第57話 日常26 黒図昴』

 黒図稲荷の本殿に向かって、和装の人々がしずしずと歩いて行く。和服を着慣れた姿には違和感がない。そのだれもがこうべを垂れて、厳粛な表情をしている。神前式の、参進の儀だった。

 その列の先頭。甲高い笙の音と、琵琶の響き。そしてひそやかに打たれる鼓のリズムにいざなわれて、黒い紋付き袴の花婿と、白無垢姿の花嫁が並んで歩く。

 二人の顔は、白い狐の面で隠されている。背の高い樹々が頭上を覆う鎮守の森のなかで、ゆるやかに時が流れる空間だった。

 拝殿に着き、修祓の儀で神主が大麻(おおぬさ)を振るう間も、二人は一言も発さない。

 列席者全員の清めが終わってから、神主がかしこまって祝詞(のりと)を奏上し、ようやく花婿と花嫁は面を外した。

「黒図昴(すばる)です」

「黒鳥嬰子です」

 嬰子は、はじめて見る黒図宗家の三男坊の顔を控えめに眺めた。

 青白い頬に、優し気な目元。鬼が棲むと呼ばれる宗家に、こんな人がいたんだ、という感想を抱いた。

 その時、昴もまた嬰子を見つめながら口を開いた。

「綺麗だ」

 昴が20歳。嬰子が17歳。まだ年若い二人だった。

 見つめあう二人に、神主が、「んんん」と咳ばらいをした。

 それから、三献の儀、誓詞奉読と進むあいだ、嬰子は自分の胸に去来する高鳴りに、驚いていた。




 そうして黒図昴は、黒鳥家に入った。黒鳥昴だ。

 これまでも、黒道一族を祖に持つ、黒図家、そして黒鳥家は分家してからも血の交流を行ってきた。

 黒図家が主家筋ではあるが、まれに黒図家から黒鳥家に入るものもいた。外に血を残すことも、万一の場合に家を途絶えさせないため、必要なことだった。

 黒鳥の里では女性上位の伝統があったが、宗家出身の夫となると、事情が複雑だ。

「嬰子さん。一緒に食べよう」

 はじめて二人きりで過ごす夜、嬰子は台所でもじもじとしていた。

 明治大正昭和と時が下り、厳格な家父長的封建制度は社会から姿を潜めていったが、黒図宗家ではいまだその伝統を色濃く受け継いでいた。

 家長が食事をしているあいだ、妻や女衆は配膳などの世話をするのみで、自身は台所で食事をとるのだ。

 女性の立場が強い黒鳥の里ではそうしたことはないのだが、夫が主家である宗家の人間なのだからと思うと、悩ましいところだった。

「でも」

 嬰子が引き続きもじもじしていると、昴が、「じゃあ僕もそっちで食べるよ」と言い出したので、慌てて居間のちゃぶ台の前に座った。

 二人で住むには広い家だった。結婚に際して黒鳥一族の長である、惣領からあてがわれた木造二階建の家だ。

 秋の初めで、家電製品もない古い日本家屋は、リィリィという虫の音に包まれている。

「その髪の毛、染めてるの? 黒に」

「はい」

 昴に問われて、思わず前髪に触れた嬰子は、ハッとして、「すみません」と謝った。

 食事中に髪を触るのは、無作法な行為だ。昴はまったく気にしない様子で、「ありのままの君が見てみたいな」と笑った。

 嬰子はデンマーク人の父を持つハーフだった。もともとの金髪を、惣領から咎められて染めているのだ。

「噂はかねがね聞いていたよ。黒鳥の鬼子ってね。どんな怖い人だろうと、僕は怯えていたんだ」

 嬰子は赤くなった。今の惣領の三人の娘のうち、子のいない長女の家に養子に入って以来、様々な不合理なしきたりへの反発から何度も問題を起こしてきた。義母は庇ってくれるが、惣領と、その後継者と目される次女からは徹底的に叱られ、しつけと称して様々な罰を受けてきた。

 そうして矯正され、覆い隠されてきた、『自分』

 夫はありのままの君が見てみたいと言う。

 嬰子が黙っていると、昴は箸を置いて向きなおった。

「君が宗家に、恨みを持っていることは知っている。兄たちの愚行がわかっていても、僕には止められなかっただろう」

 嬰子は身体を硬くした。

 宗家への恨み。それは、たしかに忘れることができない。嬰子のなかでの、前時代的で不合理な因習の数々への怒りは、すべて黒図宗家に集約された。特に、数年前に突然黒図の御屋敷へ招かれた時に負った深い心の傷は、今も閉じられることはない。

 結婚相手を探すうえでのことであっても、許されることではないはずだ。しかも、後に知ったが、彼らにはすでに許嫁がいたという。ただ、彼らは単に鬼子として音に聞く金髪娘に興味があって、黒鳥の惣領に差し出させたのだった。

 かわるがわる行われる行為のあいだ、笑って感想を述べあう彼らの横顔を、脳裏に刻みつけた。

 いつかその恨みを晴らす日のことだけを思って。

「僕らは、お家の歴史。しきたり。名誉。多くの不自由の中に生きている」

 昴は嬰子のそばにやってきて、その手を取った。青年の手は細く、骨ばっていた。

「この結婚からして、家に決められたものだ。僕らの意思は無視されている。そんな二人だ。普通の夫婦が送る、当たり前の生活はできない。因縁としがらみが僕らの人生を縛り続けるだろう。でもね」

「はい」

 嬰子は同じ目線に屈んだ昴を、挑戦的な目で見つめた。

「これからは、僕が君を守る。父や兄にはもう手を出させない。僕は君の夫だ」

 嬰子は、握られた手から、青年の誠意が流れ込んでくるのを感じていた。

「そんな二人でも、幸せになれることはないなんて、決まってはいない。そうだろう?」

 ハッとした。交差する視線のなかで、嬰子は過去を見て、昴は未来を見ていた。

 本当に、そんな未来があるのだろうか。

「ご宗家さま」

 握り返された手の感触を噛みしめながら、夫は、「昴でいいよ」と言った。

「昴さま」

「昴」

「昴、さん」

 昴は苦笑して、嬰子を抱き寄せた。

「嬰子」

 その胸のなかで、小さく頷いた嬰子は、明日、染めた髪を戻してみようかと思った。



 晴れた日に、昴が庭をいじっていた。

「殺風景だからね」

 昔、池があった跡地を直していたのだ。土を掘り返し、石積みで囲い、そこに用水路から水を引こうとしていた。 なかなかの重労働だ。

「お身体に触ります」

 嬰子は心配してそう言った。

 昴は身体が弱かった。少年時代から病気がちで、床についていることのほうが多い人生を送ってきたのだ。

『できそこないと、父や、兄たちからは疎まれてね。それで家を出されたんだ』

 本人はそう言って笑っていた。

『私も、厄介者と疎まれてございます』

 嬰子がそう言うと、彼は、『僕らはお似合いだね』と笑っていた。

 実際のところ、黒図宗家の男子は早逝が多い。昔からの伝統だそうだ。神獣・九尾の狐を祖に持つ黒図宗家の男子は、妻を娶ったその日から、九尾の嫉妬という呪いにさらされるのだという。

 それを防ぐには、妻を軽んじ、虐げるほかないのだとか。

 嬰子は何度か見た、昴の母の顔を思い出す。まるで人形のように精気のない顔をしていた。昴の兄たちも、自らの母である彼女を、まるで使用人のように扱っていた。

 しかし、昴は、嬰子を妻として愛した。嬰子はそのことに、言い知れぬ不安を覚えた。はじめて、二人で過ごした夜に、その床で嬰子は、夫に抱かれながら九尾の幻影を見た。嬰子は仮にも、多くの呪術を修めた人間だ。それがただの気の迷いではないことはわかっていた。

「本家の庭園にね、立派な池があるんだ」

「存じています」

「そこに咲く、睡蓮のかわいい花が、僕は好きでね」

 昴は、土にシャベルを刺して、額の汗をぬぐった。

「昔、近くに来ていたクロード・モネの展覧会で睡蓮の絵を見たんだ。ああ、あの睡蓮をこんな風に絵にするんだ、と思って感動したなあ。それから、僕は、いつか自分の庭に、自分の睡蓮を育てて、絵に描きたいな、とずっと思っていた」

「絵を、描かれるんですか?」

 嬰子は、昴の掘り出した土を小さな猫車に乗せて、庭の隅に往復した。

「練習中」

 恥ずかしそうな夫の顔がまぶしかった。

「ご宗家さま!」

 突然、野良着姿の中年男が走って来た。

「そんな庭仕事、私らがやりますから」

 見ると、その後ろからも慌てふためいた様子で、彼の妻らしい女性も走って来ている。

 隣の家の夫婦だ。隣とはいっても、広い田舎の土地なので、家はかなり離れている。彼らは、里に迎えた黒図宗家の息子の世話役を仰せつかっていた。

「いや、いいんだ。自分の庭くらい、自分で好きにいじりたい」

「私らが、惣領に叱られますから」

 必死で言いつのる男に、昴は困った顔で両手を広げた。

「本当に大丈夫だから。それに僕も黒鳥の里に婿に入ったんだ。もう宗家の人間じゃない」

「そう言われましても」

 被っていた帽子を取って、握りしめる男に、嬰子は頭を下げた。

「ご厚意はありがたく頂戴いたします。助けが必要な時は、遠慮なく言いますから」

「あ」

「ちょっと、あんた」

 息を切らしながら遅れてやってきた彼の妻が、ズボンのすそを引っ張った。

 二人が離れると、昴と嬰子は作業を再開した。

 隣人夫婦は、その様子を遠巻きに見ながら立ち尽くしていた。

「あんなに睦まじいお二人なのに」

 夫がぽつりと言った。

 少年と少女といってもいい、若い二人が、肩を寄せ合って生きている。その姿に、涙がにじんだ。

 隣人の妻も、目頭を拭った。

 婿に来た、宗家の三男坊は、もう永くない命だと聞かされていたからだ。

「本当に」

 それでも手を取り合って生きる若い二人を、隣人夫婦は涙を流しながら見つめていた。



 冬が来て、逃げるように去り、やがて春が来た。

 その春も、初夏の陽気に押し出されるようにして去ろうとしていたある日。若い二人の家の庭に、睡蓮が初めての花をつけた。

 まさにその日。病院から帰ってきた嬰子は、夫の前に座り、頬を染めながら言った。

「授かりました」

 その時のことを、嬰子はずっと忘れなかった。

 夫の喜びと、胸に湧いた誇らしさ。抱きしめられた暖かさ。間に合った、という安堵。

 そして、その後で起きた不思議な体験のことも。

「おいで。なにか着て、暖かくして」

 夜、夫は嬰子を庭に連れ出した。

 夫は、いつになく興奮していた。爛々と輝く瞳に、嬰子は不安を覚えた。

「なにをさるんですか」

 昴は微笑みながら言った。

「できこそないと言われ、大人になる前に死ぬだろうと言われたこの僕が、子どもを授かった。こんなに嬉しいことはない」

「昴さん。私も嬉しゅうございます。あっ」

 いきなり抱きすくめられて、嬰子は目を白黒させた。

「僕はね。父や兄から疎まれたから、外に出された、と言ったけど。それは身体が弱いから、というだけではないんだ」

「どういうことでしょう」

 抱く力に、不思議な力強さがあった。

「ふふふ」

 昴は、微笑むと何事かつぶやいた。

 若くして陰陽道と、呪言道の秘術を修めた嬰子にも、聞いたことのない呪文だった。

 次の瞬間、上空に向かって引っ張られるような感覚に襲われたかと思うと、抱き合った態勢のまま、二人は宙に浮きあがった。

「ええっ」

 驚く嬰子に、昴は、「大丈夫。力を抜いて」と囁いた。言われたとおりに身体を預けると、昴は、「えい」と言った。

 それからの時間は、まるで夢を見ているかのようだった。

 嬰子は、昴に抱かれたまま、空を飛んだのだ。鳥のように、自由自在に舞い、頬に風を感じては、それが現実に起こっていることだと実感した。

「飛行、自在の術」

 嬰子は絶句した。偉大な始祖、日備葦牙(ひびのあしかび)様が使ったという、絵巻物でしか知らない、陰陽道の秘技だった。

 そんな奇跡のようなわざが、現代に再現されるなど思いもよらなかったし、それを、一緒に暮す夫が成しているということが信じ難かった。

「本家の大婆さまが言っていたよ。これほど、本尊様、つまり九尾様に愛された子はいないと。だから、きっとこの子は、すぐに本尊様に冥府へと連れていかれるだろうと」

 月が、近くなった気がした。二人は、かなりの高度を飛んでいた。見下ろすと、月明かりに照らされて、夜の里がちっぽけに見えた。その地表にへばりつくように並ぶ家々も。

「僕は幼いころからそう言われて育ち、僕もきっとすぐに死んでしまうんだろうと思っていた。でも、君が」

 昴の目に、涙があった。それが、風に舞って、飛び去って行く。

「君が、僕に子どもを授けてくれた。できそこないと言われた僕が、子を残せる。そんな幸せなことがあっていいんだろうか」

「昴さん」

 不思議な重力場の浮揚感に包まれ、嬰子は飛行中にまったく身体の負担を感じていなかった。暖かく、優しい空間が周囲を覆っていた。嬰子は、金色の髪を夫の胸に埋めた。

「僕は、里じゅうに、伝えたい。この喜びを」

 カッ、と稲妻が走った。月明かりに押し出されたように、雷雲どころか、雲一つない空にだ。

「宗家よ、九尾よ。音にも聞け。我が妻は、子は、なにものにも害させない。この僕が守る。わかったか!」

 再びの雷光。それが里じゅうに走った。まるで千の竜が躍るさまのようだった。

 嬰子は、その一瞬に、夫の背に生えた翼の幻影を見た。長く、巨大な翼だった。

 なんという力だろうか。里にも、宗家にも、これほどの強大な術を持つ人間はない。

 なのに。

 地上にゆっくりと降り立った時、昴は、恥ずかしそうにはにかんだ。




 その年の冬。昴は、子どもが生まれるのを待たずに、逝った。

 糸が切れたように、と周囲の人間は言った。

 けれど嬰子はわかっていた。夫が、避けられない九尾の呪いを、一身に引き受けて死んでいったことを。

 葬儀のあいだ、蔑んだ目で死んだ夫を見ていた、彼の父や兄たちには、きっとわからないだろう。昴の強さの形が。人形のような妻を従えて、生きながらえている彼らには。





 月日が過ぎ、里を離れた嬰子が久しぶりに帰郷した時、連れてきた小川冬馬という青年に、寝間着を出してやろうとした。

 しかし、見つけた着物は、小さすぎて入らないと言われてしまった。

「こんなに小さかったかのう。儂の旦那さまは」

 その夜、嬰子は寝間着を胸に抱いて眠った。

この記事へのコメント
蓮くんエリート血統やな
父の能力強すぎ
Posted by 名無しのお弟子さん at 2025年11月24日 15:42
旦那が睡蓮が好きだったから息子に蓮って名付けたのか
ええ話や
Posted by 名無しのお弟子さん at 2025年11月25日 00:54
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