301『第37話 黒火(クロツヒ) 5』

 ギギィ。ギギィ。

 一歩一歩と足を踏み出すたびに木の床が鳴る。

 廊下の先に、なにかが見えてきた。地蔵? それは最初、地蔵が並んでいるように見えた。廊下の両脇に、黒いものがずらりと並んでいる。

「うっ」

 冬馬は口を押さえた。

 黒いものは、人だった。何人もの人が、床の上で土壁を背に正座をしている。そこを通る貴人に対して、控えているかのようだった。しかし、生きている者は一人もいない。着物姿の男女は、その全員がミイラ化していた。

 冬馬はゆっくりと足を踏み出し、その前を通る。異常な光景は、それだけではなかった。裃を身に着けて座っている男たちは、みな頭部がなかった。いや、髷を結った自分の頭部を、膝の上に抱えているのだった。どの顔も、目を閉じたままミイラ化している。女性の姿もあったが、そちらはみな本来の位置に頭部があった。同じように正座し、木のように変色した死後の顔は、瞑想をしているように穏やかな面持ちに見えた。

 時間が止まっているかのようだった。ギギッ、ギギッ、という足音だけが響き、死者の群れの中を進んでいく。

 風が。

 ふいに、頬に風を感じた。

 冬馬は、暗い廊下の先に目を凝らす。

 ついで、頭部を抱えた胴体を見る。冬馬は緊張をした自分に気づく。首の、中ほどから落とされている者もいる。首の根元からない者もいる。

 ドクドクドクと心臓の打つ音が早くなる。

 女性の死体は、どれも首はあった。しかし、壁沿いに立ち並ぶそのシルエットに、ひとつ、おかしなものがあった。

 頭の皿がない女性がいた。

 次の瞬間、ひゅんっ、と冷たい血が全身を駆けた。

 冬馬は、跳ぼうとした、しかし、瞬時に切り替えて、身を伏せた。

 ザザザザッ。

 下げた首筋を、怜悧な風が撫でたのを感じた。

 男たちの落ちた首の位置が違うのは、座高が違うからだ。そして男たちより座高の低い女性たちの中でも、やや高い人は頭頂部を失っている。

 今、冬馬の頭上を薙いだものが、切り落としたのだ。これまで、幾度も。

 廊下の奥に一瞬、冷たい刃物のきらめきが見えた気がする。

 ひゅううううううう。

 遅れて、生暖かい風が抜けていく。古い木材の香りがする。

『顔を上げなさい』

 這いつくばった冬馬に、廊下の奥から声が聞こえた。

『ここは、生きている人間のくる場所じゃない』

 黒図の声だった。

 冬馬はゆっくりと顔を上げ、中腰のまま廊下を歩きだした。死者の侍る道を、足音を殺して進む。

 やがて、廊下の先に、板張りの座敷が見えてきた。天井が高い。祭祀の場のようだった。座敷の奥に向かって、しめ縄が幾重にも張り巡らされている。

 神職の格好をした男が、その中にいた。

「黒図」と冬馬は声をかけた。「ここは、あんたの実家なのか。現実の」

『確かに実在する場所だ。黒図宗家の、奥の院だよ。しかし、今は死をまどろむ僕の夢と混ざり合い、あいまいな状態になっている』

 死を、まどろむ。

 冬馬はその言葉を頭の中で繰り返した。

『君は、生身でここに足を踏み入れることができた。部長から、血筋のことを聞いたね。君は、確かに黒図家に連なる血を受け継いでいるようだ。だが、今は帰りなさい』

 黒図の周りに、無数の火が浮かんだ。部室で見たものよりも、ドス黒く、禍々しいものに感じられた。そのほの明かりに照らされて、座敷の奥に巨大な鏡が二つ、並んで置かれているのが見えた。その部屋にあるものでも、とりわけ、恐ろしい存在のような感じがして、思わず目を逸らす。

『君の血に、混ざっているものを、奥の院が嫌悪している』

 赤黒い火は黒図を守るように、渦を巻いている。

「それだよ。あんた、焼死したくせに、まだ火遊びをしてるのかよ」

 指さして挑発する言葉を、虚勢と受け取ったのか、黒図は薄笑いを浮かべた。

「それが、クロツヒってやつか」

 黒図はゆっくりと首を振る。

『違う。クロツヒの火種は、秘所に蔵されている。当主以外触れることは許されない。しかし、宗家の男子はいつかくるその時に備え、操火術を学ぶ。この、狐火の術だ』

「九尾の狐に習ったってやつか。ほんとにいるのかよ。そんなおとぎ話の中の妖怪が」

 その言葉に、座敷の空気が変わった。

『君は、その尾を踏んだ』

 気が付くと、黒図は右手に刀を持っていた。冬馬はギクリとしたが、口が自分の意思ではないように止まらなかった。

「それも聞いたぞ。馬霊刀ってやつじゃないか。黒図党が使ってた呪物」

『神獣、九尾がうつしよから隠れた時、黒図家、いやその前の黒道一族に授けた三種の神器の一つだ。九つの尾は、はがねに変じて、九振りの太刀に。二つの目は、対の鏡に。そして鼻梁はひと張りの弓となった』

 ふいに、黒図の言葉が多重に聞こえはじめた。

『馬霊刀は八本あったが、今はすべて役目を終え、失われた。これは、九つあった尾のうち、正位置の尾が変じたもの。原初の一本。名を、油絶ち(ユダチ)の剣という』

 よく聞くと、女性の声が重なっているようだった。

『この剣が、君に混ざったものを、絶ち切りたがっている』

 冬馬は後ずさった。

 君、という言葉に、そなた、という声が被さって聞こえた。

 黒図の右手には、異様な瘴気を放つ剣が。そして左の手の平には、音もなくふき上がる炎が握られている。

『君は、自分の死を想像していないのではないか』

 その言葉には、嘲りが含まれていた。

『古来より、新城村の神社に祀られる天狗の肉を食べ、怪物と化した者はいた。そのたびに、それを退治してきたのは、黒道一族なんだよ』

 黒図が、ゆっくりと近づいてくる。手の平からこぼれ出る火が、周囲を回る火に混ざり、どんどんと大きくなっていく。

『ひと絶ちにしようか。炭となるまで燃やそうか』

「いや、ちょっと待って」

 冬馬は、黒図の頭部に、動物の耳のようなものが突き出ているのを見た。

「待って待って、まじで」

 下がろうとすると、バンッ、と背後でひとりでに襖が閉まった。その瞬間、襖はあの廊下の障子のように、空間に固定された器物のような気配に変わった。冬馬はそれを、レイヤーが解除された、と感じた。

 渦を巻く火が、不気味な形へと変わった。舌なめずりをする、獣の口のようだった。冬馬は、チリチリと顔の産毛が燃えているように感じた。

「待ってってば。これが燃えると困るだろ」

 冬馬が突き出した手には、文庫本が握られていた。

「マルセル・プルーストの、『失われた時を求めて』。あんたが部室で読んでるのは、いつもこれだったろ」

 黒図がぴたりと歩みを止めた。冬馬は、部室を飛び出す前に、黒図の座っていた椅子に残された本を掴んでいたのだ。

「ずっと同じ本を読んでいることを知っていたのに、それをおかしいと感じなかった。俺にも、ほかのみんなと同じように、多少の記憶操作の影響はあったんだな。あんたに関する話題の時に、今まで大きな齟齬がなかったのはそのせいだ。あんたは、部室で同じ行動を繰り返している。これが無くなるのは、困るんじゃないのか」

 黒図はきょとんとしていたが、やがて肩を揺らし始めた。

『同じ本とは、言ってくれるね。それが全部で何巻あるのか知っているのかい』

「え?」

 冬馬は手の中の文庫本に目を向けた。よく見ると、タイトルの横に9というナンバーが入っている。

『その岩波版は、全14巻だ。とても長いうえに、難解なせいで、入院でもしなければ読み切れないと讃えられる、世界的な名作だよ』

 ふふふと笑うその周囲から、火が消えて行く。

『入院と似たようなものだと思ってね、せっかく死んだんだからと挑戦しているんだ』

 いつの間にか、重なったような声は、黒図一人のものに戻っている。

『その9巻もまだ途中なんだよ。燃えると、困る』

 右手の剣も消えた。最後に、狐のような耳だけが残り、頭の上でくるりと回った。

『その襖から出るといい。戻れるはずだ』

 冬馬は油断なく後ずさりながら、後ろ手で襖に触れた。動く。

「どうして」

 冬馬は逡巡しながら口を開いた。

「どうして死んだんだ。事故だったのか」

 黒図はそれには答えず、首を振るだけだった。

『部長がいつも肌身離さず持っているお守りは、五色地図のタリスマンと呼ばれる、恐ろしい力を持つ呪物だ』

 しめ縄の内側と外側で、二人は向かい合っている。

『僕は、それに囚われている』

「部長が? なぜ?」

『……思い出はいつか色褪せて、消えるだけだよ』

 急に襖が開いた。ひとりでに。冬馬はその中に吸い込まれた。その寸前、文庫本は冬馬の手から逃げるように零れ落ちた。

「うおおおお」

 ぐるぐると天地が回転した。重力の向きがわからない。

 ドンッ、という衝撃があり、足の下に、地面があった。



 気がつくと、冬馬は丘陵研究会の部室の中にいた。冬馬のほかには誰もいない。黒図が座っていた椅子に目をやったが、もうなんの気配も感じられなかった。

 すべてが夢だったような気がする。悪い夢だ。しかし、連絡ノートを見ると、今日、日備葦牙記念館へ行ってきた、という部長の書き込みがあった。デフォルメされた、部長と冬馬の絵が添えられている。意外に絵が上手い。

 連絡ノートを閉じ、天井を見上げた。

「宗家の男子はクロツヒを受け継ぐ日のために、操火術を学ぶ……。黒図暁は、黒い火にまかれて死んだ」

 冬馬は、ぼそぼそとつぶやく。

「身内に殺されたのか?」

 なぜ?

 考えてもわからなかった。

 代わりに思ったことは、次に部室で会ったら気まずいな、ということだった。

(ていうか、あの人、いつまでいるんだろう)

 ドッと疲れが出て、冬馬はゆるゆると部室を出た。外階段の方から、夕日が射しこんでいる。

 部室のドアに鍵をかけるため、財布を取り出した時、廊下の数メートル先に人影があるのに気づいた。

 ハッと顔を向けると、部長が立っている。

 冬馬が最初に思ったことは、(これは、どっちの部長だろう)ということだった。

 黒図が死んだ記憶を持っている部長なのか、それとも黒図が生きている世界線の部長なのか。

 しかし、その表情を見れば明らかだった。さっき、じゃあねえ、と言って帰っていった時の穏やかな顔つきとは程遠い、余裕のない表情だった。

 部長は冬馬の目を見ていた。焦り。戸惑い。逡巡。それらが混ざり合った目の光を。

 言葉になる前の未分化の感情が交差し、冬馬が近寄りながら、「あの」と口を開きかけた時、音田響花は走った。

 冬馬の横をすり抜けて、部室のドアノブを握り、そして、口走った。

「暁(さとる)!」

 開かれたドアの向こうは、人のいない部室の光景があるばかりだった。

 その場で立ち尽くす部長の背中を見ながら、冬馬は彼女の呼びかけた言葉が耳の奥にリフレインするのを、耐え難い気持ちで聞いていた。

 痛い。

 なんて痛いんだ。

 初めて体験する痛みは、いつまでも収まらなかった。

 夕日が廊下を染めて、そこに二人のシルエットを縫い留めていた。

この記事へのコメント
グソウムドイは加奈子→冬馬
ユミツカイは山田あすみ→小路小熊
ゴシキチズは京子→ウニ→音響

ヨルノサンポシャだけずっと瑠璃なんだな
タリスマンがいつ音響に渡ったのかも知りたいが
Posted by 名無しのお弟子さん at 2025年05月15日 17:07
音響が一時期ハンドルネームで「キョーコ」を名乗ってたのも、なにかの“縁”だったのかねえ。
Posted by 名無しのお弟子さん at 2025年06月24日 21:01
丘研初めて読んだ時は音響のキャラが激変しすぎてて最初間崎京子が出てきたのかと思ったもんだが、もしかしたら意図されてる可能性もあるんだな。
Posted by 名無しのお弟子さん at 2025年07月04日 01:41
師匠シリーズの弟子(男連中)は報われない恋ばかりしてるな
Posted by at 2025年07月06日 09:24
今んとこ全員やねw
Posted by 名無しのお弟子さん at 2025年07月06日 23:53
見落としなら申し訳ないけど、黒図暁が黒い火にまかれて焼死したことを冬馬はどうやって知ったんだろう?
去年の冬に亡くなった、とは聞いたが死因までは知らなかったと思ったんだが
Posted by 名無しのお弟子さん at 2025年11月24日 04:53
>>6
『第46話 呪指(のろいゆび) 3』によれば部員たちの証言によって知ったらしい
タイミング的に『第29話 目薬 3』の後で教えてもらったんだろうけど、おそらく作中にその場面はない
Posted by 名無しのお弟子さん at 2025年11月26日 20:48
>>7
やっぱり作中での描写は無かったですよね、どうもありがとう
Posted by 名無しのお弟子さん at 2025年11月27日 15:59
黒火3で、本来あったエピソードが抜けてたっぽい。
部長が黒図暁の死について説明してるシーンが追加された修正版が公開された。
Posted by 名無しのお弟子さん at 2025年12月25日 11:57
>>9
あとで空白部分の詳細が話されるにしても、黒図暁の死因に関してだけはブツ切りが雑すぎたのでなんか変だなと思ってたんですよ
エピソード抜けだったんですね
Posted by 6 at 2026年01月02日 16:29
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