165『未』2

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2012年1月2日 23:36

『とかの』に帰り着いたとき、腕時計を見ると午後四時半を回っていた。
旅館の玄関から中へ向かって楓が「ただいま」と声を張り上げる。少しして女将がフロントの奥から姿を表した。
「どうでしたか」
「いやあ、期待はずれですね」
師匠は明るくそう言って、山の上からの景色についてしばらく女将と語り合っていた。僕は地滑りの跡で見つけた石についてどうして黙っているのだろうと疑問に思った。
その師匠の横顔がスッとこちらに向き直る。
「おい、次を見に行くぞ」
「え」
まだどこか行くんですか。
師匠は女将にこのあたりの道を尋ねている。
つい、つい、と袖を引かれた。楓が耳元に顔を寄せてくる。
「なに」
「あの人ほんものなの?」
「なにが」
「霊能力者」
まあ確かにここまでは、まったくそれらしい所を見せていない。
「テレビに出てくるのとは違うけど、霊を見ることに関しては凄いよ」
霊感が強いだけの人なら他にもいるだろうが、師匠の本当に凄い所は、その見たこと、体験したことに対する料理の仕方なのだ。
それはある意味、探偵的と言えるかも知れない。つまり興信所の調査員であるこの今のスタイルで正解なのかも知れなかった。
「ふうん。まあいいや。で、付き合ってんの?」
いきなりすぎて吹きそうになった。
「助手だよ」
「それもう聞いた」
「まあいいじゃないか」
ああ。やってしまった。明確に否定しないという、見栄。
軽い罪悪感に襲われていると、二人でひそひそやっているのが気になったのか、和雄が「なになに」と近づいてくる。
「よし、行くぞ」
師匠に服を掴まれる。軽く引きずられながら「どこへ?」と訊くと「この旅館の周辺の調査」
ようするに散歩ですか。
という軽口が出そうになったが、クライアントの前なのでさすがに自重した。
「また案内したいですけど、ごめんなさい。これから用事があって」
楓が頭を下げる。高校時代の友だちとクリスマスイブパーティをするらしい。
それを聞いて、僕はようやく今日が十二月二十四日であることを思い出した。
思わず和雄の方を盗み見するが、「いいあなあ」などと余裕ぶっている。しかし内心はどうだか分からない。
「じゃあ、僕もそろそろ帰ります」
旅館の外に出ると、和雄もそう言って敷地の隅にとめてあったバイクに跨った。排気音とともに手を振りながら去っていく姿を見送る。
「あ〜あ、かわいそうに、あいつ」
人ごとのようにそう言う師匠だったが、十二月二十四日という今日は僕らにも平等に訪れていることを分かっているのだろうか。
「日が暮れる前に行くぞ」
そう言って歩き出した。すでに日の光は西の山の端へ隠れつつあった。
それから小一時間かかって周囲を散策しながら枝川沿いに旅館へ来たときの道を逆に辿っていった。寂しい道で、あまり地元の人ともすれ違わなかった。
やがて道路沿いに背の高い金網で覆われた一帯が見えてくる。来たときに見た貯水池だ。周囲はすでに薄暗く、膨大な水量を蓄えた水面は輝きもせず、死んだようにひっそりとしていた。
金網のそばに看板があった。
『亀ヶ淵(かめがぶち)』という名前のこの貯水池は、応仁の乱の後に戦国武将が各地で覇権を競い始めたころ、この地に侵攻してきた高橋永熾(ながおき)が自身の勢力の新しい拠点として今の西川町一帯を封じた時に作ったものだそうだ。
枝川の水量が安定せず石高が伸びなかったこの地に、持参した地金を惜しげもなく投じて土木工事を行ない、巨大な水瓶を提供したのだ。
師匠はその看板の説明文を読み終えて、ぼそりと言った。
「問題の若宮神社は、この武将が開いたのかも知れないな」
「どうしてですか」
「若宮って名前のつく神社は、例えば大分の宇佐神宮を本宮とした場合、その御祭神である八幡神こと応神天皇の子、つまり御子神であるところの仁徳天皇を祀った神社のことだ。あるいは、単に本宮から新たに迎えた御祭神という意味で若宮と呼ぶ場合もある。その場合は八幡神である応神天皇の分霊を祀っている神社ということになる。いずれにしても、基本的には本宮ありきの神社なわけだ。そして本宮から新たな若宮を勧請してくるのは、国司やその地の豪族などの実力者と相場が決まっている。戦国時代にあっては、その役割の中心を担ったのが……」
戦国武将というわけか。
高橋永熾が元々の勢力圏で信仰していた神社から、新たな支配地であるここへ、その御子神か分霊を勧請してきたということならば、確かにありそうだ。
「もう少し調べてみたいな」
いずれにしても、その若宮神社に行って宮司と話をしてみる必要があるだろう。時計を見ると、まだ六時だった。さっきその時間を告げる鐘の音が鳴ったばかりだ。訪ねて行けない時間でもない。その息子である和雄と面識があるので、話も通しやすいだろう。
しかし師匠は少し考えた末、「また、明日にしよう」と言った。
とりあえず、その旅館に出るという霊とやらを見てみるのが先だということか。
「戻って、飯食おうぜ」
踵を返した師匠に、頷いてから後に続いた。
そう。それが気になってしょうがなかったのだ。旅館の夕食ということで、料理を期待しても良いのだろうか。それとも僕らは仕事で来ているのだから、「え? そちらの夕食は用意していませんが」とあっさり言われたらどうしよう。
近くに弁当とかパンを買える店があったかなあ、と思い悩みながら歩いた。
ようやく『とかの』に帰り着くと、玄関のあたりが妙に騒がしかった。見ると二十代半ばくらいの女性が四人、たむろしていた。
ああ、そういえば今日は僕らの他に二組、客がいるって聞いてたな。
「こんばんわ」
師匠は愛想よく挨拶をして旅館の中に入る。
「あ、こんばんわ」
出迎えた番頭の勘介さんに荷物を渡しながら、女性たちもこちらに笑顔を向けた。みんな暖かそうな服装をしている。仲良しOL四人組というところか。
それもクリスマスイブに温泉旅館に泊まるってことは、恋人のいない仲間同士ということだろう。
玄関を通り抜け、廊下の手前で師匠にそのことを囁くと、おもむろに腕時計を見て、その針を示しながら口を開いた。
「日没の後だから、『クリスマスイブ』の用法としては正しい」
まだこだわっているのか。
「あ、ちょうど良かった」
仲居姿の広子さんが僕らの前に現れて、手招きしながらフロントの奥へ入っていく。
「電話かかってきてるみたい」
事務所の電話をとっていた女将がこちらに気づいて、電話口に軽くお辞儀をしてから師匠とかわる。
受話器から声が漏れている。大きな声だ。
「お食事、お部屋にお持ちしますので、それまでおくつろぎください」と僕に言って、女将は忙しそうに事務所から出て行った。
師匠はうざったそうにあしらうような口調で話し終え、受話器を置いてから溜め息をついた。
「例の婆さん。この宿の馴染み客で、わたしを女将に紹介したひとだよ」
ああ、頼みもしないのに方ぼうへ師匠のことを宣伝しているという人か。
「万事任せておけば大丈夫だから、失礼のないようにしなさい、って女将に釘刺してくれたんだと。……他に余計なこと言ってないだろうな、あのばあさん」
そう言って苦笑する。
「自分も正月泊まりに行くから、幽霊退治よろしくな、ってさ」
それから部屋に戻ろうとすると、師匠が「ついでに電話するところがあるから、先に戻ってろ」と言う。調査事務所の所長の小川さんに今日のことを報告でもするのだろうかと思い、あてがわれた二階の部屋に一人で戻った。
足を投げ出してテレビをぼんやり見ながら先に汗を流そうかと考えていると、広子さんがやって来て、隣の部屋を指さしながら言う。
「先、ご飯食べたいって言うから、あっちの部屋で、一緒でいい?」
師匠も部屋に戻ったのか。もちろん従うほかはない。
広子さんもその僕らの間の力関係というか、雰囲気を、すでに理解している様子で、一応確認というポーズを取っているだけのようだった。
その後、師匠の部屋にお邪魔し、テーブルに向かい合っていると「失礼します」と女将が広子さんを伴って入ってきた。
そして目の前に、色鮮やかなお膳が並べられる。
紹介してくれたお婆さんの口添えが効いたのか分からないが、期待以上の食事にありつけた。
山菜の天麩羅など山の物が多かったが、普段美味しいものを食べつけない僕ら貧乏学生にはどれも過ぎた料理ばかりで、二人とも何度もご飯をおかわりして給仕してくれた広子さんを呆れさせた。
師匠は最後に茶碗に残ったご飯にお茶を注ぎ、白菜の漬物を乗せてからかき込んだ。そしてようやく人心地がついた、という表情で箸を置く。さすがに晩酌はなかった。師匠はそれが少し物足りなそうだった。しかしこれからが仕事の本番なのだ。
そこへ頃合を見計らった女将が部屋に戻って来た。
「いかがでしたか」
そう訊かれて、二人とも素直に料理を褒めた。温泉地としてはあまり有名ではないこの土地で、旅館を三代に渡って続けられているのもこうした付加価値があるからかも知れない。
「少し、いいですか」
師匠は改まった口調で女将に問い掛けた。
「はい」
女将は広子さんにお膳を片付けさせながら、着物の裾を綺麗に整えながらテーブルの脇に正座をした。
そんな風にされるとこちらも落ち着かず、僕は思わず座布団の上に正座で座りなおす。師匠は気にしない様子で、あぐらをかいたまま女将に話しかけた。
「若宮神社は、この先の貯水池を作った高橋永熾が勧請した神社ですか」
「ええ。そう聞いております」
高橋家はその後、息子の代で別の戦国武将に攻め滅ぼされたのだそうだ。それ以来、この地は徳川幕府が開かれるまで、何度も支配する武将が変わっていった。
すらすらと喋る女将からのその言葉の端々から、かなりの教養のほどが窺える。
感心しながら聞いていると、師匠は少し考えるそぶりを見せた後、話題を変えた。
「この裏山ですが、もしかして大規模な土砂崩れが起きたことがあるんじゃないですか」
女将はハッとした表情を見せる。
ついさっき、山から戻って来て「期待はずれでした」なんて言っていたくせに、結局訊くのか。
それにこの部屋で仕事の話をすると主客が逆転してしまう、なんて言っていたのに、もうめんどくさくなったのか。
半ば呆れながら師匠と女将の会話に耳を傾ける。
「ええ。私が小さいころですから、もう三十年以上前になるでしょうか。このあたりに記録的な大雨が降ったことがございまして……」


降り止まないどころか、ますます勢いを強くする雨に、子どもながらなにか大変なことが起きているということは分かったのだそうだ。
その日、折からの大雨のために『とかの』に客はいなかったのだそうだが、旅館中をみんながバタバタと落ち着かずに動き回り、夕方ごろには父親と、まだ健在だった祖父とが血相を変えて「裏山を見てくる」と雨具を被って出て行った。
近くの他の家からも大人が何人か雨の中に出てきて、山の方へ向かったようだった。
恐る恐る玄関から外を見ていると、滝のように轟々という音を立てて降ってくる雨の中から「川には近づくなよ」という誰かの声が混ざって聞こえた。
しばらくすると、ふいに地響きのような音が雨空に唸りを上げた。それは耳を塞いでも聞こえてきた。恐ろしい音だった。
住み込みの男性従業員が「崩れたんじゃないか」と叫んで、雨の中に飛び出していった。
父と祖父のことが心配で、気がつくと自分も外に出ていた。バケツをひっくり返したような大粒の雨が絶え間なく上空から落ちてくる。その雨の中を合羽も着ずに走った。視界は悪く、片手で額を覆っても目を開けることが困難だった。
山の方から大人たちの大声が聞こえてきた。「崩れた」「危ない」という言葉が聞こえた。
その中に、父と祖父の声もあって、ホッと胸を撫で下ろした。
安心すると、「見つかったら叱られる」ということに気がつき、「早く戻らないと」と引き返そうとした。
その時、ふいに桜の木のことが頭に浮かんだ。枝川の土手にある桜だ。土手の壁面から斜めに生えていて、増水した時には根元が水に浸かるんじゃないかといつも心配していた。
思わず川の方へ足を向けた。
降りしきる雨の中、目を凝らしても桜の木は見えなかった。このあたりのはずなのに。流されてしまったのだろうか。
土手に近づいて川の方へ目をやると、今までに見たこともないような濁流がうねりを伴って川上から川下へと流れていた。
恐ろしくて足が動かなかった。雨音と川の奔流の音で耳が痛い。
全身を鉛のような雨粒に叩かれながら、猛り狂う川の流れから目を離せないでいると、狭い視界の端に、不思議なものが映った。
物凄い速度で流れていく泥水の中に、真っ黒い動物の身体が見えたのだ。その胴体は途方もなく長く、波打っていて、濁流に乗り目の前を通り過ぎようとしていた。
蛇だ。
それも、胴だけで一抱えもある、とてつもない大蛇。その身体が怒り狂うようにうねりながら大雨と濁流の中を流れて行く。
息を飲んでその行方を見守る。遥か彼方へその姿が消え去ってもしばらくその場を動くことができなかった。
「なにしてる、こんなとこで」
怒鳴り声とともに祖父に手を掴まれた。なかば引き摺られながら『とかの』に向かっている間、「おじいちゃん、蛇が、蛇が」と喚いた。
祖父はギョッとした顔をしたが、「変なことを言うんじゃない」と叱りつけた。
『とかの』に戻ると、祖父がここは危ないので小学校へ避難すると宣言し、全員で雨の中を逃げた。
その間中、自分の頭の中には、のたうつ大蛇が川を流されていく姿が何度も繰り返されていた……


語り終えた女将は、我に返ったように慌てて「おかしなことを申しました。子どものころに見た幻でございます」と付け加えた。
師匠は興味津々という顔で、「その後はどうなりました」と尋ねた。
「ええ。幸い、山が崩れたのは川側の方だけでして、結局旅館の方は大丈夫でした。その後、役場が委託した調査会社の方が調べたところによると、今後また万が一土砂崩れがあっても、やはりこの『とかの』の方へは崩れてこないということでしたので、ご安心ください」
ちゃんと、忘れずにフォローもしている。なかなか抜け目ない人だ。悪い噂などどこから広がるか分からないのだから。
「その、大雨の日の土砂崩れの前にも、やっぱり裏山には神社の跡などはなかったんですね」
「ええ。なかったはずです」
「わかりました。ありがとうございます」
師匠はあっさりとそう言うと、女将の祖父のことや先代である父親のことをあれこれと訊いた。
祖父はもちろんだが、父親も母親ももう亡くなっていた。そして入り婿であった女将の夫、つまり楓の父親も十年ほど前に病気でこの世を去ったのだそうだ。
師匠はこの戸叶家の事情をおおよそ訊き終えて満足したのか、最後に「では、今夜はわたしと、この助手とで夜中じゅう、交代で番をします」と言った。
他の客が寝静まってから、これまでに神主の霊の目撃が多かった場所を中心に見張るというのだ。
「もしそれまでに出たら、とにかくすぐにわたしに知らせてください」
女将は、「従業員もすべて承知しておりますので、よろしくお願いします」と言って頭を下げた。
お茶をいれなおしてから女将が部屋を出て行った後で、師匠はニヤリと笑って言った。
「こいつは、カナヘビちゃんだぜ」
カナヘビ?
なぜここでカナヘビが出てくるのか。
その意味を訊いても、はぐらかすように「風呂風呂、風呂に入ろう」と手を叩くだけだった。

           ◆

「ねえ、あれ彼氏?」
「違うよ」
「うそぉ」
「まじで」
……
そんな黄色い声が頭の向こうから聞こえて来る。
露天風呂だった。
和雄の言うとおり、広々としていてなかなか良い湯だ。そんな所を一人で占拠するのはなんとも言えない良い気分だった。
岩に頭をもたせ掛けて空を見上げていると、ざぁー、と身体を流す音が遠くから微かに聞こえる。頭の先には竹を組み合わせた壁があり、その向こうには女性用の露天風呂があるはずだった。
湯気が夜空に上っていき、澄んだ空気の果てにある星をゆらゆらと隠していく。
寒空の下、顔は冷たいのに、身体だけは温かい。いつもはシャワーばかりでお湯につかるという習慣がない僕だったが、こういうのもたまには良いものだ。
「ねえ、ほんとに彼氏じゃないの」
「ほんとだよ」
消極的な見栄を張った僕とは大違いだ。
ズルズルと背中を滑らせ、そのまま頭の先まで湯の中に沈み込んだ。頭の芯まで熱が入り込んでくる。
「彼氏じゃないのに、旅行してんの?」「なんかそっちの方がやらしい感じ」などという声が水を通して聞こえてくる。
師匠はさっそくOL四人組と仲良くなったようだ。師匠は今二十四歳のはずだから、同い年くらいか。
そうだよな。普通なら働いている年齢なのだ。それどころか子どもがいてもおかしくない。
湯の中に沈みながら、一人でそんなことを考えている。
師匠からはあまり、大人の女、という感じを受けない。子どもがそのまま大きくなったようだ。
なんだっけ。生物学上で、こういうのを。ウーパールーパーとかサンショウウオがそうだよな…… 思い出した。ネオテニーだ。幼形成熟、だったっけ。
まあ師匠の場合、あくまでその性格上の話だが。
頭の中でサンショウウオの姿がぐねぐねと変形し、図鑑で見たカナヘビの姿に変わった。
こいつは、カナヘビちゃんだぜ。
湯から顔を出して、師匠の言葉を反芻する。
女将が見たという大蛇はなんだったのだろう。あの枝川にはそういう『主』の言い伝えは特になかったそうだ。では一体?
大雨。土砂崩れ。大蛇。
あの裏山で師匠が見つけた石に刻まれていた不思議な雨冠の漢字となにか関係があるのだろうか。
そしてそれはこの神主の霊が出るという事件と関係があるのだろうか。
真剣に考えを巡らせていると、また女湯の方から嬌声が上がった。
「もうヤったの?」
「やってないよ」
「うそぉ」
「まじで」
動揺した僕は湯の底についていた手を思わず滑らせてしまった。バシャンという音が立つ。
「ねえ、隣で聞いてるんじゃない」竹で編まれた壁の向こうからの声。続いて、キャーキャーという笑い声。
もう出よう。
僕はいたたまれなくなって露天風呂から上がる。ドアを開けて大浴場の方へ戻ると、頭の禿げた父親と小学生くらいの息子が身体を洗っていた。もう一組の泊り客の家族だ。
「こんばんわ」と挨拶をして脱衣所へ向かった。
出なかったな。
和雄が神主の霊を見た、という露天風呂だったがそれらしい姿も気配も、なにもなかった。
浴衣に着替えから廊下に出て、「湯」と書かれた暖簾の前に置いてあった藤製の長椅子に腰掛けて、なにをするでもなく、ただ湯あたり寸前にまで火照っていた身体を冷ましていた。
しばらくぼうっとしていると、師匠を含めた女性陣がもう一つの「湯」と書かれた赤い暖簾の下からわらわらと出てきた。
「あ、やっぱりいた」
なにがやっぱりなのだ。
OLたちはあっちに卓球台があったから、みんなでやりませんか、と誘ってくる。
あ、いいな。卓球は久しぶりだ。温泉に来るとどうしてこんなに卓球をやりたくなるのだろう。
その騒々しい一角に、タオル類を満載した台車を押している勘介さんが通りがかった。
じっとりと睨むような目つきで僕らのそばを通り過ぎる。
『観光気分か……!』
そう詰られたような気がした。
「ああ。ええと、わたしたちは遠慮しとくよ。な」
師匠に話を振られて「はい」と返事をする。
「じゃあさっきお願いしたとおり、オバケっぽいのを見たら教えてね」
師匠はOLたちに手を振りながら僕を引っ張っていく。
それから僕らはまた旅館中を視察して回った。中庭や裏の駐車場を含めて見て回ったのだが、昼間と同じで特に異変は見当たらなかった。
仕方なく一度師匠の部屋に戻り、なぜか備え付けてあった将棋盤を見つけたので二人でパチリパチリと指しながら、今日あったことを確認する。
「なんなんでしょうねえ、神主の幽霊って」
「さあなあ。見てみないことにはな」
「あの、裏山の石に書かれていたっていう漢字となにか関係があるんですか」
「さあなあ」
師匠は気のないような素振りで情報を秘匿していた。明らかになにか掴んでいるような感じなのだが、いつものようにもったいぶっている。
「おい、これちょっと待った」
「二回目ですよ」
「いいから」
溜め息をついて、銀が元の位置に戻るのを見逃す。勝負に熱くなってきて前のめりになった師匠は膝を立てて身体を前後に揺すり始める。僕はとうに勝負の見えている将棋よりも、その浴衣の裾が気になって仕方がなかった。
そんなことをしていると、ドアをノックする音が聞こえた。返事をすると広子さんがお盆にケーキを乗せてやってきた。
「残ったから、あげる」
そして、あたしもう寝るから頑張ってねえ、と言いながら去っていった。
クリスマスケーキが二切れ。師匠は脳天から真っ二つにされたサンタクロースの半分が乗っかっている方を取った。硬そうな砂糖菓子なので、切る過程でかなり胴体が生地にめり込んでいる。
それから師匠が紅茶を淹れて乾杯をした。
メリークリスマス。
今ごろ街を華やかに彩っているであろう、赤と白の二色とは縁遠い、地味な和室の中だったけれど、少しだけ気分が出た。素直に広子さんに感謝する。
ケーキを食べ終わると師匠は言った。
「さきに寝ろ」
朝まで交代で番をするから、と。
時計を見ると夜の九時だった。師匠の案では九時から日付の変わった深夜二時までの五時間が師匠の番。そして二時から朝六時までの四時間が僕の番ということだった。
「僕は別に徹夜でもいいですよ」
そう言ってみたのだが、「一晩で済むとは限らない。いいから先に寝ろ」との仰せ。
「わかりました。でもどうして僕の番が六時までなんです」と訊くと「ここは時の鐘が鳴るって言ってたろ」と返された。
そう言えば、訊き込みをしていた時に女将か誰かがそんなことを言っていた気がする。貯水池を見に行っている時にもその鐘の音が鳴っていた。
今のような時計のなかった時代には、庶民が時刻を知るために時の鐘と呼ばれる仕組みがあった。寺や神社の鐘つき堂などで毎日決まった時間に鐘がつかれるのだ。
明け六つであれば六回、昼九つであれば九回という具合に。それを聴いて、人々は仕事や生活の区切りとしていた。例えば昼に八回鐘が撞かれる昼八つであれば現在の午後二時ごろを指すのだが、その鐘を聴くと一度仕事に休憩を入れ、その間に疲労回復のための甘い物などを取る習慣があった。これが今の「おやつ」という言葉の語源だそうだ。
この松ノ木郷ではくだんの若宮神社に時の鐘があり、今でも一日のうち明け六つ、昼九つ、暮れ六つの計三度、時を告げているのだそうだ。それぞれ朝六時、昼の十二時、そして夕方の六時に。その鐘の音はこの『とかの』へも聞こえてくる。
「こういう、境界を表したものは、古い霊魂には強く影響するはずだ」
師匠は言う。
夕暮れは「誰そ彼(たそかれ)」とも言い、向こうにいるのが誰なのか分からない、という薄暗さを、そして不安な感じを表している。そして日が落ちきってしまえばそこからはもう人の世界ではなく、魑魅魍魎や悪鬼の類が闊歩する夜の世界へとがらりと変わってしまうのだ。
同じように夜明けのころも「彼は誰(かはたれ)」と言い、向こうに立っているのがいったい誰なのか判然としない、という不安さを表しているのだが、それはやはり夜に住まう人ならぬものたちの支配する時間と、昼に生きる人間たちの支配する時間との境界に位置する時間帯なのだ。
「鶏の鳴き声を耳にして退散する鬼の話を聞いたことがあるだろう」
それは鶏の声そのものに怯えたのではなく、夜と昼の境界を越えてしまったことを知って鬼は逃げ出すのだ。温かい湯を止まり木の中に流し、無理やり目を覚まさせて鳴き声を上げさせ、まだまだ夜は明けないにも関わらず、鬼を退散させてしまう話もあった。
その鶏の声の役割を果たすのが、この土地では明け六つの鐘というわけだ。
「鐘の鳴った朝六時以降はまず出ないな。今日集めた目撃談でも、暮れ六つより前に『出た』という話はなかった」
 出るのは暮れ六つから、明け六つの間の時間。
つまり、土地の習慣に呼応した古風な霊である可能性が高い。
そう言って師匠は盤上の詰んでしまった自分の王将を爪で弾いた。
「とにかく、もう寝ろ。二時になったら起こしに行くから」
そう言って追い出された僕は自分の部屋に戻り、歯磨きをしてから敷かれていた布団に潜り込んだ。明かりの消えた部屋の玄関のドアから小さなノックとともに師匠が顔を覗かせて「今夜は出ないかもな」とぼそりと言った。
「え?」と訊き返そうとすると、「じゃあ見回りに行ってくる」と言ってそっとドアを閉じた。

           ◆

どれほど眠っただろうか。
長時間電車に揺られ、旅館の中を歩き回ったり、山に登ったりという今日一日の疲れがどっと出た僕は、布団に入って目を閉じたとたんに眠りに落ちてしまった。
静かだった。
夢を見ていた気がするが、いつの間にか遠い土地の旅館の一室に横たわっている自分がいる。
身体が重い。疲れがまだ取れていない。
静かだ。そして暗い。
暖房が効いている。部屋の中は滑らかな暖かさに包まれている。しかし外は冷え込んでいるだろう。
冷たい空気が建物を握り込むようなミシミシという音がどこからともなく聞こえてくる気がする。
何時だろうか。
交代の時間はまだか。また眠気が忍び寄ってくる。
静かだ。
天井が高い。見慣れない天井だ。ここはどこだ。
誰かいる。
部屋の隅に。
誰かが立っているのが分かる。
静かだ。息を吸う音。そして吐く音すら聞こえない。
誰だろう。
仰向けのまま身体が動かない。
重い。石を乗せられたようだ。
部屋の中には自分しかいない。それも分かる。
なのに誰かが立っている。
首を動かそうとする。部屋の隅を見るために。
重い。油が切れた機械のようだ。首の関節の間に、小さな無数のゴミが詰まっている。
どうして黙っているのだろう。
ごとり。
首が落ちた。
ような音が。
みしりと、隅から一歩踏み出す音も。
ごとり。
また首が落ちた。
みしり。
また一歩。
ごとり。
みしり。
ごとり。
……
近づいてくる。そのたびに首が落ちる。
落ちた首が畳の上を這うように転がる。いくつもいくつも。
そんな音だけ。
布団の端を誰かが踏んだ。
ぼとり。
掛け布団の上に何かが落ちた。
首が動かない。動け。動け。
逆へ。
逆へ、動け。
見たくない。背けたい。
見たくな

「おい」
身体を乱暴に揺すられた。
「あ」眩しい。人工の光が目に飛び込んでくる。
師匠の顔がある。
「交代だ」そんな言葉が聞こえる。
目が覚めた。
旅館の部屋だ。眠っていたのか。
「寝ぼけてるな。お茶でも飲め」
布団から身体を起こして、師匠が入れてくれた湯気の立っている熱いお茶を口に含む。
はあ。
頭が覚醒していく。さっきのは夢か? 夢だとするならば、目覚めた夢。経験上、そんな夢は疲れている時によく見る。そして悪夢であることが多い。
「誰か部屋にいませんでしたか」
「いや」
師匠は眠そうに欠伸をすると、深い息を吐いて「もう寝る」と言った。部屋の時計を見ると、夜中の二時を少し回っていた。
「寒み」
と言って、師匠が僕の布団に入ってくる。
「ちょ、ちょっと」
慌てていると、「なにがちょっとだ。早く出てけよ」と、布団から蹴り出される。
「自分の部屋で寝てくださいよ」
「うるさいな。さっきまで玄関と外をうろうろしてたから、寒いんだよ。布団暖め係、ご苦労」
しっしっ、と手で追い払われる。
僕は仕方なく立ち上がり、大きく伸びをする。「なにか出ましたか」布団に包まった師匠にそう問い掛けると、「いんや」との答え。
僕は溜め息をついた。師匠が番をしている間に、なにか起きるような気がしていたのに。この人の中の普通ではないなにかに、引き寄せられるように、だ。
浴衣を脱いで服に着替えていると、布団の中から声が掛かる。
「でも、なにかいるぞ。ここには」
え。なにか感じるんですか。そんな言葉を口にしようとしたが、ふぅ、という布団の中からの疲れきった吐息に会話を拒絶される。
身支度をしてドアを開けようとしたとき、「気をつけてなぁ」という眠そうな声がもぞもぞと聞こえた。
廊下に出ると、少し気温が下がった。部屋の中よりも空調が効いてないのだろう。天井の大きな蛍光灯は消えているが、その横の小さな黄色い電球にほんのりと明かりが灯っている。裸足のまま履いたスリッパが足の甲に張り付くたびにひんやりとした感触がある。
二階は全部で六部屋ある。今夜は僕と師匠の二部屋しか使われていないはずだ。念のために残りの四部屋の前に立ってドアをノックし、それぞれノブを回そうとしてみたがどちらにも鍵が掛かっていた。
廊下を進んで一階へと降りる階段に足をかける。折り返しの踊り場で首だけを伸ばして階下を覗き見ると、その先の薄暗い廊下には人の気配はまったくなかった。
恐々と下に降り、移動できる範囲で周囲を見て回る。一階には事務室の奥に従業員の仮眠室があり、仲居が寝ているはずだが、井口親子は本館のそばの離れに住んでいるはずだった。
そして本館のすぐ裏には戸叶家の住宅が接していて、女将や楓はそこで寝ているはずだ。昔は家族は多かったはずだが、二人いたという女将の弟もそれぞれ独立して家を出てしまっていて、四年前に楓の祖母を亡くしてからは、母子二人だけの暮らしになってしまったという。
さぞ寂しいことだろう。
そんなことを思いながら事務所の中を覗いてみると、電話機に接続されたFAXが受信可能な状態であることを示す緑色のランプがチカチカと灯っていて、その光だけが暗い部屋に瞬いていた。
遠くから換気扇を回すモーター音が聞こえる。大浴場の方だろう。
そっちも見に行かないと。
そう思ったが思いのほか億劫で、後にしようかと玄関ロビーのソファーに腰掛けると、そのまま立ち上がりたくなくなった。
不思議なものだ。
ついこの四月に、普通の学生生活が始まったばかりだったのに、いつの間にこんな遠くの温泉宿に泊まりに来て、深夜に誰もいない玄関で得体の知れないものを見張るようなことになってしまったのだろう。
空調の機能を時間帯で落としているのだろうか。肌寒さを感じながらしばし物思いに耽っていると、ふいに玄関の外からなにかの物音がした。
どきりとして立ち上がり、恐る恐る玄関の自動ドアにかけられたカーテンの隙間から外を覗き込む。
旅館の敷地の中の、背の高い街灯が丸い明かりを灯しているその下に、なにものかが動く影が見えた。
自動ドアは、電気スイッチが切れている。しかし僕らがそこからも外に出られるように、今晩だけはロックがされていないはずだった。
二枚の厚手のガラスが合わさるその隙間に指先を入れ、力を込めるとドアは手動でわずかずつ開いていった。
瞬間、冷気が顔に吹き付けてくる。通り過ぎようとした人影がびくりとしたように立ち止まる。
「楓さん」
声を掛けられた相手はスクーターを押して歩いていたところだった。
「わ、びっくりした」
それはこっちのセリフだ。まだ帰ってなかったのか。もう時刻は二時半を回っている。
「今夜は寝ずの番なの? あの人は?」
「交代で番をしてるんですよ。今は部屋で寝てます」
そばに近づくと、アルコールの匂いがした。
「飲酒運転」
そう言って指でバツを作ってやると、「堅いこと、言いっこなし」と楓は笑った。それから声をひそめて、しばしのあいだ立ち話をする。今夜はかなり楽しく遊んだようだった。
その中でふと、なんの気なしに僕は問い掛けた。
「和雄さんのこと、どう思ってんの」
女将は明らかに二人をくっつけようとしている。そして周囲もそれを追認しているようだ。もちろん和雄自身も。しかし若者にとって重大なイベント日に、女友だちとの遊びを優先した彼女の心理はどういうものなのだろうか。
楓はう〜ん、としばし唸った後、ぼそりと言った。
「和にぃは、堅物すぎ」
まあ、そこが今どきの男には珍しいんだけど。そう言いながら両手の手袋を片方ずつ脱いでいく。
「もう少し強引じゃないとね。今日だって……」
そう言いかけたところで、おっと、という表情をした。
「まあ、その上の修にぃよりはまだクダケてるけど」
じゃあ、お休み。
そう言って手を振りながら楓はスクーターを押して旅館の裏手へと消えていった。表の道路と同じように舗装されているので、道が悪いわけではない。ただ客商売をしているので、深夜に帰宅する時は手前でエンジンを切ってくるのだろう。
酔ってはいても、身についた習慣があるのだ。なかなかしっかりした子に思えた。
そんでもって、脈有りだなあ、和雄さん。
僕はしばらくそこに佇んだ後、周囲になんの気配も感じないのを確認してから旅館の中に戻って行った。
空調は弱いが建物の中はさすがに寒空の下とは雲泥の差だ。生ぬるい空気の流れが周囲を包み、わずかな照明だけがロビーの椅子や置物を闇の中に浮かび上がらせている。
なにかが違う。さっきまでと。
立ち止まった僕の心臓がわずかずつ早く脈打ち始める。
なんだこの気配は。
息を殺してあたりに目を配る。なにも見えない。動くものも。静止している異物も。
そっと大浴場の方へ足を向ける。ポケットからペンライトを取り出してスイッチを捻る。暖簾をくぐり、脱衣所、浴場、露天風呂と進む。すべて出入り口のロックは外されていた。
師匠もみんなが寝静まってからこのあたりもすべて見回りをしただろうか。
ブーン…… という換気扇の音が自分の呼吸音と混ざる。露天風呂の湯はまだ温かく、湯気が寒気の中に立ち上っている。黒々とした植え込みの影がそれを囲んでいる。
なにも出ない。風呂場を出て、客室へ向かう廊下を足音を忍ばせて歩く。
窓から中庭が見通せる。どの場所も、どの場所も、神主の姿形をしたこの世のものならぬものが現れたという場所だ。
さほど広くないこの鄙びた旅館で、余りにも多くの目撃談がある。これではかえって探し辛い。どこに重点を置いて良いのか分からない。
場所ではない。場所に憑いているのでは、ない。
では一体なにに?
僕は息を殺しながらロビーに戻る。フロアの中ほどに置かれたテーブル。その椅子に腰掛けて玄関のドアの方を向いて座る。
時間がゆっくりと過ぎていく。
なにかいる。わだかまった気配が、それでも形を成さぬように煙か、あるいは水蒸気のような姿で旅館の中を蠢いているようだ。
その姿勢のまま僕は固まり、永遠とも思える時間が流れていった。
朝は、まだか。
いつの間にかそればかり考えていた。繰り返し、繰り返し、そればかり。外はまだ暗い。未だ夜に棲む住人たちの世界。
異世(ことよ)に棲まうものたちの……
…………
いる。
誰かが廊下の隅に立っている。背後に目をやらずとも、それが分かる。いつの間にいたのか。
音も立てず、声も掛けず。じっとそれは立っている。
どんな姿をしているのだろう。
身体が動かない。夢の続きのようだ。目覚めたと思っていた、あの夢の中の。
いや、自分は本当にその後に目覚めたのか。本当はずっと身体はあの和室の布団の中にいるのではないか。
ではここでこうしている自分は誰だ。
ああ、思考がぐちゃぐちゃだ。
誰だ。自分ではない。立っているのは。誰だ。
トットット…… と早いリズムで胸が脈打つ。
動いた。
近づいてくる。
ロビーの隅の暗がりから、それがゆっくりとこちらに近づいてくる。音はない。畳の上のように、その踏み出す足は音を立てない。
ただすーっと気配だけが玄関へと向かうのが分かる。
その途中に、僕がいる。玄関のドアに向かって座っている僕が。気配は止まらない。なにかが起こる。なにかが。
その予感が自分の中で膨張する。そしてそれが弾けそうになった瞬間、僕の耳は確かにその音をとらえた。
鐘の音。
遠く、そしてたなびく様な微かな音の波が乾いた空気を震わせる。
明け六つだ。境界を超えたのだ。
朝六時と決められた現在のこの土地の時の鐘は、この冬場には『彼は誰(かはたれ)』の薄明よりも早く鳴らされるのだ。
いや、外に出れば山の端の空は白みがかっているかも知れない。しかし、玄関のカーテンを閉めたロビーにいてはその微妙な時の移ろいを感じることはできない。
しかし、明け六つだ。確かに人と物の怪の世界を分ける、狭間の時間が終わったのだ。僕は全身の力が抜けるような安堵を覚えた。
鐘の音は続いた。二つ目。そしてその余韻が消え去った後に、三つ目が。それを数えながら、僕は振り返ろうとする。
さっきまであった背後の気配はとっくに消えてい……
その瞬間、心臓が止まりそうになった。
消えていない。気配は、すぐ真後ろまで来ていた。背筋の皮膚が総毛立つような恐怖に襲われる。
なんで。
頭の中にボールペンの先が目にも留まらないような高速で走る。ぎゅるぎゅるという擬音。
す…… 捨て鐘だ……っ!
なんで忘れていたんだ。僕は知っていた。知っていたのに。
明け六つの六回の鐘が撞かれる前に、これから時を告げることの先触れとして、鳴らされる鐘があった。三回の捨て鐘。つまり明け六つは九回鐘が鳴らされるのだ。その最初の三回は、明け六つよりも前、つまり境界の上にある時刻。それが鳴り終わるまではヒトの支配する時間ではなく、未だたゆたう、狭間の時間に属しているのだ。
背中に、氷のように冷たい気配が触れた。つま先から頭の天辺まで、なにかが走りぬけた。
鐘の音。
四回目の。
その瞬間、背後から触れた気配はそのまま僕の身体を突き抜け、突き抜けながら消えて行った。明け六つの始まりと同時に。
その気配は視覚的には全くとらえることはできなかった。しかし確かに、なにか得体の知れないものが、消えながら玄関の外へ向かうのを感じていた。
その気配に突き抜けられた部分の体温が根こそぎ持っていかれたような気がした。いや、体温だけではなく、生気というか気力というのか、なにかそういうものもベリベリと剥ぎ取られたかのようだった。
気配が完全に消え去り、九回目の鐘の音を聞き終わっても僕はその場で動けなかった。椅子に腰掛けたまま、悪寒が全身を駆け回るのをじっと感じている他なかった。
「おい」
いきなり後ろから肩を掴まれる。師匠がいつの間にか息を切らせて後ろに立っていた。「出たのか」と訊かれて必死で頷く。師匠は舌打ちをすると、周囲を警戒するように見回す。
あのなにものかの気配を感じて布団から飛び起き、そのまま部屋から走ってきたのだろうか。
「神主か」
「たぶん」
はっきりは分からなかったが、最後に本物の明け六つの始まりと同時に消え去りながら、その瞬間に神主の着るような装束を身に纏っているのが見えた気がした。そのことを切れ切れに説明する。
「そうか。後で状況を詳しく教えてくれ。とりあえず部屋で休め」
ヒューヒューと胸の真ん中から体内の空気が抜けていくような錯覚があった。
「大丈夫だ。すり抜けただけなんだろう? 襲われた感じでもないしな」
そう言いながら師匠はズボンのポケットから金属製の薄いケースを取り出した。さらにその中から半紙を畳んだようなものを摘み出す。
「これ飲んで寝ろ」
蓋の形に折り込まれた部分を捲ると、中には粉薬のようなものが詰まっているのが見えた。
「なんです、これ」漢方薬のようなものだろうか。
「言ったらプラセボにならないだろう」
言っているし…… 偽薬と。
ともかく僕は師匠からその薬を受け取り、コップに汲んできてくれた水で喉に流し込んだ。苦かったが、気のせいか悪寒が溶けていくような感じがした。
少し楽になって、なんとか立ち上がり、二階の階段に足をかけた。そのとき玄関フロアの明かりが完全に灯り、「おはようございます」という声とともに女将がフロントの奥から顔を覗かせた。
僕は蚊の鳴くような返事をして、師匠が女将に何ごとか話かけるのを尻目に階段を上がり、眠るために部屋に戻っていった。







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posted by 巨匠 | Comment(0) | 師匠シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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